戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

須子 備後守 すこ びんごのかみ

陶氏家臣。筑前国博多において糸原勝秀とともに陶氏の銭米の管理・出納に関わった。実名は惟明である可能性がある。

頼勢 らいせい

安芸国竹原庄西谷にあった萬福寺の住職。永禄三年(1560)、楽音寺に大般若波羅蜜多経が施入された際、折本作業の中心を担った。

肥留 景忠 ひる かげただ

陶氏家臣。陶興房、後に隆房に仕えた。官途名は惣右衛門尉。奉行人として陶氏所領および所領から収納される銭米を管理にあたった。陶興房の側近として興房への取次を担当することもあった。

桟留縞 さんとめ じま

江戸期、ポルトガルやオランダの商船によって日本に輸入された縞織物の一つ。紺地に茶または赤の経(たて)縞糸を入れた縞物。その名は、インド東岸のコロマンデル地方の港市サントメ(サントメ・デ・メリアポル)に由来するとみられる。江戸初期には絹織物…

サントメ(マイラープール) Sao Tome(Mayilappur)

インド東岸のコロマンデル海岸の港市。古くはローマや中国とも通交した南インドのパッラヴァ朝の海港として知られた。またヒンドゥー教やシリア派キリスト教の信仰の地として巡礼者も多かったという。16世紀にポルトガルが進出すると聖トマスの聖地とされ…

マドラス Madras

インド東岸のコロマンデル海岸中央部の港町。元は小さな漁村だったが、17世紀前半、イギリス東インド会社がセント・ジョージ要塞を建設し、コロマンデル海岸における中心拠点としたことを契機に都市として発展した。周辺地域が戦争の多発などで不安定な政…

モートゥパッリ Motupalli

インド東岸のコロマンデル海岸北部の港町。13・14世紀、カーカティーヤ朝やレッディ朝の時代、周辺の港町との交易だけでなく、中国やペルシア方面を結ぶ東西貿易の拠点として栄えた。ヴェネツィア人のマルコ・ポーロの旅行記にも、13世紀末のモートゥ…

プリカット Pulicat

巨大なプリカット湖(潟)と海を隔てるシュリーハコータ島の南端部に形成された港町。14世紀頃から多くの商船が集まる商業都市として繁栄した。17世紀にはオランダ東インド会社の商館が置かれ、コロマンデル地方における同社の中心拠点となった。

サドラス Sadras

インド東岸のコロマンデル海岸の港市の一つ。綿布などの輸出港として周辺の商品生産地と連携しながら栄えた。17世紀以降、オランダ人などヨーロッパ勢力が進出した。

ミール・カマールッディーン Miercamaldijn

マスリパタムを拠点に活動した大商人。ペルシア出身。ベンガル湾沿岸部の交易に関わる一方で、マスリパトナムの有力者の一人としてオランダと総督(ハヴァールダール)の仲介も行っている。後に故郷であるペルシア方面へも交易船を派遣している。

マスリパトナム Masulipatnam

インド東岸のほぼ中央に位置する港市。コロマンデル海岸の北部の中心として16世紀後半から18世紀にかけて栄えた。特に17世紀には、ベンガル湾沿岸各地の港のみならず、紅海、ペルシア湾の諸港との間にも交易関係を持ちつつ、一大国際交易港として繁栄…

唐衣裳 とういしょう

唐人の衣装。天文年間に大友義鑑が将軍足利義晴への贈答品としている。また日明貿易に深く関わった楠葉西忍も、中国から輸入すべき品目の一つに印金を施した「道士ノ古衣」を挙げている。

樹岩 見山 じゅがん けんさん

戦国期の豊後府内に住んでいた渡来系中国人。絵画技術を持ち、大友氏のもとで貴重な顔料の調達に関わることもあった。天正末年頃、府内唐人町や隣の稲荷町の住人と伊勢参詣を行っている。

盧 高 ろ こう

戦国期の豊後府内に住んでいた渡来人。中国明朝の浙江省台州府出身。元亀二年(1571)七月、同じく明朝の温州府平陽県出身の陽愛有とともに府内の称名寺に梵鐘を寄進した。

陳 元明 ちん げんめい

豊後国の漆喰塗り職人。父は陳義明。曽祖父が中国明朝からの渡来した人物であり、祖父の代で豊後国府内に定住している。後に兵火に遭って臼杵に移住。後に京都方広寺の大仏造立の為に上洛し、豊臣秀吉から褒賞を得た。

陳 李長 ちん りちょう

中国明朝出身の渡来人。明朝では要職に就いていたが、讒言に遭って出奔し、家族とともに日本の肥前国に渡航。弟や息子たちは九州や周防各地に分住していった。子の一人である陳覚明は、豊後府内に移住して仏像の制作を担う仏師として活動。覚明の孫の元明は…

清授 せいじゅ

弘治二年(1556)、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。そのまま舟山島定海に滞在していたが、後に来航した大友氏使節が明朝官軍の攻撃を受ける事件が起こり、内陸の四川省茂州の寺院へと流された。

徳陽 とくよう

弘治三年(1557)八月、豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。倭寇の罪を謝し、朝貢の許可を求めたが、明朝政府に拒絶された。そのまま中国に留まり、翌年二月、明朝官軍の攻撃を受けていた別の大友氏使節救援に奔走した。

善妙 ぜんみょう

弘治三年(1557)に豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。一方で中国明朝の記録には「夷目」あるいは「倭目」とみえ、明朝からは倭寇の頭目と認識されている。明朝に帰順しようとする倭寇首領・王直とともに浙江沖の舟山島に至ったが、…

神屋 運安 かみや ゆきやす

筑前博多の商人。官途名は主計頭。父は潤屋永富。子に次郎太郎、養子に神屋長秀(太郎左衛門)、婿に孫八郎がいる。なお、系図によっては神屋寿禎の兄とされるが、甥である可能性も指摘されている。

小田 藤右衛門尉 おだ とうえもんのじょう

筑前博多の商人。子に弥五郎。神屋寿禎の代官として石見銀山に派遣され、石見銀の買い付けを行った。後に天文十六年度遣明使節の一号船の船頭として入明したが、寧波にて死去した。

神屋 寿禎 かみや じゅてい

筑前博多の商人。石見銀山の開発と石見銀の貿易に関わったといわれる。妻は妙栄。子に三正(聖福寺龍華庵の庵主)、小四郎、宗浙、宗白らがいる。戦国末期の博多の豪商・神屋宗湛は寿禎の曽孫にあたる。

無人島(小笠原島) ぶにんじま

現在の東京都区部から南南東約1000キロメートルの太平洋上にある島嶼。江戸期の17世紀後半、漂流船の帰還を契機として日本で存在が知られるようになった。延宝三年(1675)、幕府は大型の「唐船造之御船」を派遣して調査を行い、調査隊により様々…

陳 仏奴 ちん ぶつど

中国明朝の浙江出身の人物。対馬の時羅が浙江を襲撃した際に夫の符旭とともに掠われ、時羅の妻とされたという。時羅が朝鮮を訪れた際に、同国の官人に救出され、明朝に送還された。

被虜唐僧 ひりょとうそう

応永二十七年(1420)に朝鮮の日本回礼使・宋希璟が対馬で出会った僧体の人物。希璟は詩の中で彼を「被虜唐僧」と呼んでいる。中国(明朝)台州の軍官であったという。倭寇の捕虜となり、対馬の海民のもとで使役されていた。

ひこ五郎の女房 ひこごろう の にょうぼう

対馬島北部東岸の早留浦の百姓。応永十一年(1404)、「かきつめ」(海女)であったことが「対馬番家文書」にみえる。海女もまた、公事を納める百姓(公事足百姓)として対馬島主・宗氏に掌握されていたと考えられている。

イルカ(対馬) いるか

中世の対馬国の海域では、イルカなどの「大物」は、島主である宗氏への上納が義務付けられていた。一方で宗氏は海士に浦々でのイルカ漁を免許。対馬では海士を主体としたイルカ漁が近世初頭まで続いたという。

国弘 三郎左衛門尉 くにひろ さぶろうさえもんのじょう

安芸国豊田郡安宿の住人。小早川被官か。天正九年(1581)に伊勢御師に献納したことが史料にみえる。国弘氏は安宿、清武に拠点があったとみられ、室町期から存在が知られる。

使送船(対馬) しそうせん

日本(対馬)から朝鮮に渡航した使節が乗り込んだ船。朝鮮は通交(外交)と貿易を一体のものとして扱ったため、使送船もまた貿易船としての性格を持った。また船の規模は、朝鮮側によって規定されていた。

ブダ Buda

ハンガリー中央部のドナウ川西岸の都市。13世紀、ハンガリー国王ベーラ四世によって築かれた。19世紀、北方の都市オーブダおよびドナウ川対岸の都市ペシュトと合併し、「ブダペシュト(ブダペスト)」となる。