戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

盧 高 ろ こう

 戦国期の豊後府内に住んでいた渡来人。中国明朝の浙江省台州府出身。元亀二年(1571)七月、同じく明朝の温州府平陽県出身の陽愛有とともに府内の称名寺に梵鐘を寄進した。

餘慶寺の梵鐘

 岡山県瀬戸内市邑久町の餘慶寺には、羽柴秀吉の九州遠征に従軍した宇喜田秀家が寄進したとされる梵鐘が伝わっており、下記のような銘が刻まれている。

奉奇進鐘ノ事
大日本国九州豊後国大分郡府中今小路惣道場
 右願主 大明 台州府盧高
        平羊県陽愛有
于時元亀第二辛未歳七月十三日

 この梵鐘は、元々は盧高と陽愛有の二人の中国出身者によって元亀二年(1571)七月十三日に豊後国の寺院に寄進されたものであったことが分かる。両名の出身地は、各々中国浙江省台州府と同省温州府平陽県に比定されている。

 また二人が梵鐘を寄進した「豊後国大分郡府中今小路惣道場」とは、豊後府内時宗寺院・称名寺であるといわれる。府中古図によると、この称名寺の伽藍は、唐人町の西面しており、盧高と陽愛有の二人も唐人町に居住していたと推測されている。

 中国明朝から豊後府内に移住した盧高と陽愛有は、この近隣の宗教寺院である称名寺に帰依し、梵鐘の寄進に至ったと考えられる。彼らの豊富な財力とともに、高い信仰心の存在をうかがうことができる。

豊後府内の宗教行事と唐人

 時宗念仏踊は室町期以降に風流化し、16世紀後半には風流踊として最盛期を迎えたといわれる。16世紀の府内においても、毎年七月十二日と二十六日に「大風流」が行われていた(『当家年中作法日記』)。鳥兜をかぶり、傍続を羽織って太鼓を囃す人々や、扇獅子舞を舞う人々の様子、また金・銀箔や「唐土、天竺、南蛮、高麗の綾羅錦繍を似かさりたて」た舶来衣装を装っていた人々もいたことが記録されている。

 大友氏もこの祭礼に積極的に関わっていた。天文年間に比定される年、大友義鑑は、七月十二日に府内で「風流」が催されるにあたり、大友家の年中行事の一つとして領内の家臣に府内への出頭を命じている(「田北憲明文書」)。

 盧高と陽愛有が梵鐘を寄進した七月十三日は、豊後府内の「大風流」の翌日の盂蘭盆会にあたる。両名の梵鐘寄進は盂蘭盆会の供養を意識した宗教的行為であったとみられ、16世紀後半の日本に渡来した中国人が、彼らの定住した交易都市において、日本土着の宗教儀礼や行事に主体的に参画していたことを示す事例とされる。

 また「大風流」では、人々は「唐土、天竺、南蛮、高麗の綾羅錦繍を似かさりたて」ていたとある。風流踊で使用された中国などの外国衣装の中には、盧高や陽愛有ら府内定住の中国人たちが提供し、あるいは自ら着飾って参列したものも含まれていると考えられている。

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参考文献

餘慶寺。梵鐘は羽柴秀吉の九州遠征に参加した宇喜多秀家が寄進したと伝えられる。