戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

2021-09-01から1ヶ月間の記事一覧

與依地 よいち

道南の積丹半島の東の付け根・余市川河口部に形成された港町。現在の北海道余市郡余市町大川町。中世、蝦夷地(北海道)に進出した和人の最前線となった。

セタナイ せたない

北海道日本海沿岸部にあったアイヌの拠点。現在の北海道久遠郡せたな町の内。和人と西部アイヌの交易の中継地であったと考えられている。

遣明船 けんみん せん

室町・戦国期、日本から中国の明朝に派遣された船舶。チャーターされた国内商船が充てられた。天文十六年度船は、記録から船の全長や柱長が分かっている。

石見榑 いわみくれ

中世、石見の材木は「石見榑」とも呼ばれ、遠隔地にも流通していた。高津川および匹見川上流域といった益田の後背地には、これを可能にする豊富な森林資源があったことが推定されている。

柳井 郷直 やない さとなお

大内家臣。官途名は蔵人。天文十六年(1547)に大内氏が派遣した遣明使節の一員。この時の記録『大明譜』の作成として知られる。

樟脳(中国) しょうのう

中国で生産された樟脳。樟(クスノキ)を加工して作られた。東南アジアで産する竜脳の代用品であり、殺虫剤や火傷の際の鎮痛剤として用いられた(『本草品梨精要』)。中国では12世紀には製造が始まっていたとみられる。

樟脳(日本) しょうのう

日本で生産された樟脳。樟(クスノキ)を加工して作られた。安価な竜脳と位置付けられ、殺虫剤や火傷の際の鎮痛剤として用いられたとみられる(『本草品梨精要』)。特産地は九州地方、特に薩摩国。17世紀以降、オランダによって海外に輸出された。

温科 種重 ぬくしな たねしげ

毛利氏被官。筑前宗像氏にも属した。官途名は吉左衛門尉。弟に波賀多親秀がいる。12端帆の大型船を複数所有し、筑前から山陰にかけての日本海で海上活動を行った。

温科 盛長 ぬくしな もりなが

大内家臣。仮名は弥四郎。官途名は弥左衛門尉。宗像社大宮司・宗像正氏の与力となり、筑前立花山城攻めなど大内氏の北九州経略で活躍した。

宮原銀 みやはるぎん

戦国期、肥後国宮原で発見された鉱石。発見当初は、銀鉱石と鑑定されたが、以後の史料には見えなくなる。

小幡 興行 おばた おきゆき

安芸国佐西郡石道(広島市佐伯区石内)を本拠とする国人。官途名は民部少輔。実名の「興」は、大内義興の偏諱とみられる。大永三年(1523)、安芸武田氏によって自害に追い込まれた。

浦添 うらそえ

琉球中山王国の王都。沖縄本島の南部、現在の沖縄県浦添市に位置する浦添グスクとその城下からなる。その語源は「うらおそい(浦襲)」で、浦々を支配する所の意という。

能美 左馬允 のうみ さまのじょう

安芸国能美島の土豪。防芸引分では、毛利氏に協力して能美島の調略を行った。後に能美島を支配した来島村上氏に仕えたか。行動の詳細は不明ながら、来島村上氏が毛利氏から離反した際、関係者の話題にあがっている。

能美 右近助 のうみ うこんのすけ

来島村上家臣。幼名は千壽丸。仮名は四郎。官途名は右近助。安芸国能美島(現在の江田島市能美島)の出身か。来島村上通康と、その子通総に仕えた。

前伯耆守 通定 さきのほうきのかみ みちさだ

伊予国守護・河野氏の被官。在京中の当主と接触する立場にあった。一方で京都の東寺からは海賊と認識されており、東寺領弓削嶋荘の年貢徴収を請け負った。後の海賊衆・来島村上氏に連なる人物ともされる。

土倉 冬平 とくら ふゆひら

大崎西庄(大崎上島町のうち木江・沖浦・明石)の地頭。応永三十五年(1428)四月、御串山八幡宮(大崎上島町明石)の社殿造立に関わった。安芸国人・沼田小早川氏の諸氏家である土倉氏の当主か。

フワン・ロピス Juan Lopis

17世紀初頭、マルク諸島のテルナテ島に住んでいた日本人。テルナテ島を含むマルク諸島には、オランダ東インド会社に雇われた日本人が連れてこられていた。フワンもその一人だったとみられる。

マキアン Makian

インドネシアのマルク諸島(モルッカ諸島)の一つマキアン島の港町。マキアン島は、テルナテ島とならぶ丁子(クローブ)の産地であり、マルク諸島最良の港を持つことで知られた。

高橋 興光 たかはし おきみつ

石見国阿須那(現島根県邑南町)を拠点とした国人、高橋氏の当主。仮名は大九郎。高橋弘厚の子。江戸中期に作成された「安芸国高田郡図」では、高田郡横田村の松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)について城主高橋大九郎としている。