戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧

萩原 おぎはら

石見銀山東方の宿場町。森林資源の豊富な石見国邑智郡や出雲国と石見銀山を結ぶ道筋の要地にあった。銀山の最盛期は荻原千軒ともいわれる栄えた町場であったという。

宅野 たくの

石見国邇摩郡の北東端に位置する港町。現在の島根県大田市仁摩町宅野。沖合に韓島(辛島)、麦島、逢島があって北風を防いでいる。17世紀初頭には町場が形成されており、石見銀山への物資補給基地であったともいわれる。

パレンケ Palenque

マヤ低地南部の西端に立地したマヤの古代都市。メキシコ湾岸低地を一望できるチアパス高地山腹の丘陵上に立地する高地性集落。先古典期後期(前400年~後250年)に居住が開始されたが、最盛期は古典期後期であったと考えられている。

イシュ・ツァクブ・アハウ Ix Tz'aka'ab Ajaw

マヤ低地南部西端で古典期に栄えた都市国家パレンケの王キニチ・ハナーブ・パカルの妃。パレンケの「13号神殿」の石棺からみつかった真紅の遺体(レイナ・ロハ)が、彼女であるとの説が有力となっている。

チチェン・イツァ Chichen Itza

メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの古典期後期・終末期(700〜1000年)におけるマヤ低地北部、プウク地方の大都市。

賀戸 善左衛門尉 かど ぜんざえもんのじょう

石見国邇摩郡波積郷の土豪。仮名は助五郎。もとは都治郷を本拠地とする国人・都治氏の被官であったが、後に毛利氏に仕えて「馳走」し、温泉津や温泉三方にも屋敷や給地を与えられた。

勝屋 肥後守 かつや ひごのかみ

石見国邇摩郡西田の住人。西田に屋敷を有していたことが史料にみえる。江戸期に西田村の庄屋となった勝屋家との関連が想定されている。

臼井 善教 うすい ぜんきょう

石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。臼井氏については西田の字「鋳物屋」や、「鋳物屋」から峠をはさんで北隣に位置する野田集落との関連も指摘されている。

中祖 淡路守 なかそ あわじのかみ

石見国邇摩郡西田の有力者。西田に屋敷を有し、温泉津と石見銀山をむすぶ輸送業を営んでいたとみられる。銀山への物資輸送に関わる役銀(駄賃役)の徴収も請け負っていた。

福井 春続 ふくい はるつぐ

石見国邇摩郡西田を拠点とした大工。仮名は藤五郎。西田に屋敷を構え、天正十七年(1589)の西田八幡宮造営に大工として関わった。

西田 長識 にした ながさと

石見国邇摩郡西田の在地領主。官途名は甲斐守。天文十七年(1548)八月、西田村八幡宮の拝殿を建立した。石見国邑智郡川本郷を本拠とする小笠原氏の一族ともされる。

西田 にした

石見銀山と銀山の外港温泉津を結ぶ街道の中継地点に位置する宿場町。現在の大田市温泉津町西田。銀山と温泉津の間の物資輸送の拠点として栄えた。また16世紀末の史料から、銀山や温泉津周辺で活動する人物が住んでいたことも分かっている。

田中 勝介 たなか しょうすけ

京都の町人。慶長十五年(1610)、日本使節の長としてヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)に渡航した。朱屋隆清と同一人物ともされる。