戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

温科 藤太郎 ぬくしな とうたろう

 大内氏の被官。長門国筑前国吉河庄・筵田郡に所領を持っていた。応仁・文明の乱の際に大内教幸(大内政弘の伯父)に味方し、大内政弘から所領を没収されたとみられる。

大内政弘から与えられた温科藤太郎跡

 天文十五年(1546)四月、大内氏筑前国早良郡代だった大村興景が子の隆景への譲状を作成。列記された所領の一つに、「温科藤太郎跡」の300貫地が以下のように示されている(「常栄寺文書」)。

一所参百貫足 温科藤太郎跡長州所々并筑前吉河庄・同筵田郡所々在之、是亦於京都 法泉殿様御約束奉書在之、雖然対諸将給人依弘護支配于今不知行、但此御約束之内、於吉河庄陸拾石拝領、温科分此内ニ在之、彼六拾石事、吉河捌拾五石之内ニ加之

 譲状には大内義隆の袖判があり、天文十五年当時の大内氏当主の義隆が一見している。大村興景が子の隆景に譲った所領の内、三百貫足は温科藤太郎跡であり、藤太郎がかつて長門国筑前国吉河庄(宮若市)・筵田郡(福岡市博多区)の所々を知行していた人物であったことが分かる。

 この知行地を与えることを大内政弘(法泉寺殿)が約束した奉行人奉書は、京都で書かれた。大内政弘の在京中ということであれば、応仁・文明の乱の際のものとみられる*1。それまでに温科藤太郎の所領が闕所となっていたことになる。

 しかし大村氏は温科藤太郎跡の所領を全て得ることはできなかったという。大内氏重臣筑前国守護代陶弘護が支配し、現在まで不知行だとする。ただし大内政弘から約束された内の吉河庄60石は拝領しており、温科分がこの中に含まれているとある。

大内教幸(道頓)に味方した温科左近将監

 応仁・文明の乱の中、温科氏の所領が没収されていたことを示す例が他にもある。文明七年(1475)二月二十日付の下文で、大内政弘が深川藤左衛門尉弘国*2に「筑前国糟屋西郷拾壱町地 温科左近将監跡」を与えている(「青柳種信関係資料」164)*3。下文写の添書には以下のように記されている。

右法泉寺殿様、応仁・文明御在京之時、豊前依錯乱、至長州渡海之、然処、広沢寺道頓様御事、依御謀叛 弘国致参洛畢、右地者温科将監致道頓方之故、於御在京中致拝領御下文写之

 応仁・文明の乱のなか、「法泉寺殿」(大内政弘)が在京していた時、「広沢寺道頓様」すなわち政弘の伯父大内教幸(道頓)が挙兵。深川弘国は上洛していたが、温科左近将監が道頓方であったので、在京中に政弘から左近将監跡の西郷十町地を拝領したという。

 温科左近将監と温科藤太郎の関係は不明だが、藤太郎もまた大内教幸に味方したことで所領を失った可能性が高い。

15世紀後半の温科氏

 温科氏は安芸国安南郡温科村(現在の広島市東区温品町)を本貫地とする。応仁・文明の乱の時期、同地には武田氏被官の温科国親がおり、応仁元年(1467)四月の周防秋穂八幡宮社殿再建に神主として関わっている。

 また陶氏被官にも温科氏がいた。 文明十一年(1479)十一月十六日付陶氏家臣連署打渡坪付に温科式部丞秀親という人物が連署している(「加藤家文書」)。

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関連人物

参考文献

周防国風土記 273巻
国立国会図書館デジタルコレクション

*1:譲状には「一所五拾石足 長門国阿武郡福井郷在之、彼地事、法泉寺殿様於京都対重継被下之」という箇所がある。長門国阿武郡福井郷の50石足は大内政弘が京都で興景の祖父重継に下したということであり、温科藤太郎分も重継が政弘から与えられれたと考えられる。

*2:深川氏は安芸国深川(広島市安佐北区)を名字の地にしていると推定される。

*3:この下文写の形式は検討を要することが研究者により指摘されている。