戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

田中 勝介 たなか しょうすけ

 京都の町人。慶長十五年(1610)、日本使節の長としてヌエバエスパーニャ(現在のメキシコ)に渡航した。朱屋隆清と同一人物ともされる。

エバエスパーニャへの渡航

 慶長十四年(1609)九月、マニラからヌエバエスパーニャ(現在のメキシコ)に向かっていたスペインのフィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベーロが暴風雨に遭って日本に漂着する。翌慶長十五年(1610)六月、ビベーロたちは徳川家康から提供されたガレオン船《サン・ブエナベントゥーラ号》に乗って相模国浦賀を出航。同年10月27日にカリフォルニアのマタンチェル港に入港し、11月13日にヌエバエスパーニャのアカプルコに投錨した。

 この時、日本の使節がビベーロに同行してヌエバエスパーニャに赴いているが、その一人が田中勝介であった。『駿府記』慶長十六年九月二十二日条には、「京町人田中勝介」が後藤庄三郎光次*1の推薦により「濃毘須般国」に渡海し、慶長十六年夏に帰国したことが記されている。

 田中勝介ら日本人22名は、ヌエバエスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコから金銀島探索を命じられたセバスティアン・ビスカイノを船長とする《サン・フランシスコ号》に同乗して帰国の途につく。ヌエバエスパーニャでの滞在期間は約1年間であった。

サン・フランシスコ号での帰国

 田中勝介は日本人の首領であり、「ジョスケンドノ」とも呼ばれたとされる。キリスト教の洗礼を受け、ドン・フランシスコ・デ・ベラスコという名を得ている。『ビスカイノ金銀島探検報告』には、航海中の状況として以下のような記述がある。

特に首領(田中勝介)は身分あり大いに尊敬されたる日本人なりしが故に、全航海中少しも迷惑を掛けず、前記司令官(ビスカイノ)は彼の善良なる態度を見、又彼が皇帝(徳川家康)に致すべき報告に依り、日本国に於て歓迎厚遇せられ今回の主要目的たる帰途前記諸島の発見に付好都合の処置を得らるべきを考慮し、彼を喜ばせ感謝の念を懐かしむることは陛下の御為大なる益あるを信じ、彼を自己の食卓に就かしめたり。

 田中勝介は皆から尊敬された日本人であり、航海中も善良な態度であったとする。またビスカイノは、徳川家康に対する勝介の報告が金銀島探索に対する日本の協力を得られるかどうかを左右すると認識しており、勝介の好印象を得るべく食事に招くこともあった。

 3月22日にアカプルコを出航した《サン・フランシスコ号》は、6月10日に浦賀に入港する。ビスカイノ一行や船を見るため多くの人々が集まり、ビスカイノも訪問してきた有力者を丁寧に接待した。田中勝介はビスカイノたちから受けた厚遇を周囲に物語り、そして「皇帝」(徳川家康)に帰国報告を行うために「宮廷」(駿府城か)に上っていった。

 その後、ビスカイノは6月22日に江戸で将軍徳川秀忠に拝謁し、7月4日に徳川家康のいる駿府に赴いた。駿府に到着したビスカイノを、多数の供を連れた田中勝介が出迎え、駿府城近くの宿に案内している。翌日、ビスカイノは駿府城中で財務長官ジョサブロ(後藤庄三郎光次)と出会っているが、そこには勝介の舅で家康の重臣であった人物も同席していたという。

 なお前述の『駿府記』慶長十六年九月二十二日条では、ヌエバエスパーニャから帰国した田中勝介が、紫羅紗を含む数色の羅紗(毛織物)と葡萄酒を献上ていたことが記されている。

朱屋ノ隆清

 『慶長年録』慶長十五年五月条には、以下の記述がある。

此比京都町人朱屋之りうせいと云者、以 大御所御意のひすばんへ渡海売買任心帰朝、猩々皮多持来、但金銀者及聞し程ハ無之、雖然他国他の島よりハ多有之、日本人渡海者無用の由、他国示之、

 慶長十五年(1610)五月頃、「朱屋之りうせい」という人物が、徳川家康の意思で「のひすばん」(ヌエバエスパーニャ)に渡海。大いに交易して猩々皮を多く持ち帰ったことが分かる*2

 この「朱屋之りうせい」は別の史料に「朱屋ノ隆清」としてみえる。室町期に写本された謡本である日爪忠兵衛宗政手択本「丹後物狂」の表表紙には、寛永十七年(1640)八月の日爪宗政による書留があり、そこには、この「丹後物狂」本文の脇書は本阿弥光悦の手跡であること、脇書は内容の誤りを訂正したものであること、校訂は「朱屋ノ隆清」の元で行われたことなどが記されている。

 朱屋隆清については、田中勝介と同一人物とする説がある。これは寛永年間(1624〜44)の京都で、田中宗因という人物が朱屋宗因とも呼ばれていたことによる*3。すなわち、朱屋は屋号であり、田中は姓であったとみられる。

 なお、田中宗因は慶安三年(1650)三月に没するが、本法寺塔頭教行院の「過去帖」(明治二十六年五月編纂)には、「宗因霊 慶安三寅年三月八日 金座田中氏」とある。

 18世紀前半成立の『京都御役所向大概覚書』「金座の事」の項には、江戸20人、京都10人、佐渡12人の「御金ニ掛使手代」の姓名が記されており、京都には「田中三郎左衛門」という田中姓の人物がいた。そして、この田中三郎左衛門を含め、金座の商人は、いずれも後藤庄三郎の手代であった。金座の当主は江戸末期にいたるまで歴代の「後藤庄三郎」がつとめ、田中氏代々は姉小路烏丸東入町の後藤屋敷に出仕したという。

 『駿府記』の記述にしたがえば、田中勝介のヌエバエスパーニャ渡海は後藤庄三郎光次の推薦を受けてのものだった。江戸期を通じての田中氏と歴代「後藤庄三郎」との関係は、田中勝介の時代にまでさかのぼるものであったことが推定される。

エバエスパーニャ渡航の背景

 慶長十五年(1610)、田中勝介ら日本人使節はフィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベーロに同行する形で、ヌエバエスパーニャに渡った。これに先立ち、ビベーロは徳川家康の要請により日本とヌエバエスパーニャとの貿易を計画し、慶長十四年(1609)十一月二十四日、伏見において「協定事項」を作成したという。

 その条目のなかには、日本で産出する銀の精錬のためにスペインの鉱夫100人、または200人の日本への派遣をスペイン王フェリペ3世に依頼し、その条件にスペイン人が銀鉱山を発見した場合は精錬した銀の半額を鉱夫のもの、4分の1を徳川家康、残りをスペイン王の分とすること。さらに、必要に応じて水銀を日本に輸入し正当な代価を支払い、銀の精錬を行うことなどが記載されている。

 水銀による銀の精錬法はアマルガム法といい、16世紀半ばからヌエバエスパーニャで導入されていた。これは、当時の日本で行われていた鉛による吹分法に比べ格段に効率がよかったとされる。その技法をもつ鉱夫の派遣と水銀の輸入を家康が望んでいたことがうかがえる。

 田中勝介が朱屋隆清と同一人物であったとすれば、その屋号は「朱屋」であったことになる。「朱」は水銀を意味し、「朱屋」と呼ばれた水銀業者が堺に居住したことも記録にみえるという。少なくとも朱屋隆清は水銀を扱った商人であった可能性は高い。渡航目的も貿易のみならず、水銀による銀製錬に関するものであったとも考えられている。

参考文献

  • 岡佳子 「光悦と朱屋田中勝介・宗因」(河野元昭 編 『光悦村開村400年記念論集 光悦ー琳派の創造者』 宮帯出版社 2015)
  • 岡佳子 「朱屋田中勝介・宗因について -近世初期京都の一町人像-」(『大手前女子大学論集』29 1995)
  • フアン・ヒル(平山篤子 訳) 「使節と発見―セバスティアン・ビスカイノの航海」(『イタルゴとサムライ 16・17世紀のイスパニアと日本』 法政大学出版局 2000)

大日本史料 第12編之7 『駿府記』慶長十六年九月二十二日条
国立国会図書館デジタルコレクションより

*1:後藤庄三郎光次は慶長小判の鋳造など幕府財政に深く関わった人物であった。印度文書館には、後藤光次がロドリゴ・デ・ビベーロに対して日本人30人の乗船を依頼する内容の書状が残されている。

*2:『当代記』にも同様の記事があるが、「朱屋」ではなく、「米屋」と記載されている。

*3:宗因は鹿苑寺住職鳳林承章の日記『隔蓂記』寛永十三年二月二十五日条「午時田中宗因点鳳団」の記事を初見とする。また寛永二十年七月四日条に「寄于宗旦老、則宗因被居、相逢也」との記事もあり、千家当主の千宗旦と親交があった。そしてこの宗旦の書状には、たびたび「朱屋宗因」の話題が記されている。『隔蓂記』の「田中宗因」と宗旦書状の「朱屋宗因」の周辺の人々は共通していることから、朱屋宗因と田中宗因は同一人物であったと考えられている。