マニラ湾にそそぐパシグ川河口に位置する港市で、ルソン島の中心都市。16世紀までには政治的結合が進んでブルネイの影響下にある首長の治下で大規模な集落が形成されており、既に周辺諸島の交易の中心であった。
スペイン人来航以前
ミゲル・ロペス・デ・レガスピの1567年(永禄十年)7月23日付の書簡によれば、ルソン島、ミンドロ島はにシナ人や日本人が毎年来て交易したという。シナ人や日本人は、絹や羊毛、陶器、扇、鉄などをもたらして蜂蝋や金を積み出した。別の史料によると、マニラ周辺には中国人居留区も形成されていた。
周辺諸島の金や蜜蝋、シナモン、鹿皮、水牛の角などの産品も、現地のモーロ人らによってマニラに集められ、各地に輸出されていたという。 スペイン人による占領以前から、マニラは国際貿易でにぎわう交易都市だったのである。
スペイン人のマニラ占領
マニラの富に目をつけたスペイン人は1570年(元亀元年)にマルティン・デ・ゴイティ率いる遠征隊を送り込み、これを占領した。ゴルティがマニラを占領した当時、同地には日本人20人と中国人40人が在住していた。日本人の一人はキリスト教徒でパブロと名乗ったという。
新大陸と東アジアを結ぶ
スペインによる占領後もマニラには、引き続き各地の商人が訪れていた。とりわけスペイン新大陸領からマニラに流入するメキシコ銀(レアル銀貨)を求める中国人は、生糸や絹織物、陶磁器など高価な中国商品をもたらした。
これらはガレオン船によって太平洋を越えてメキシコ副王領・アカプルコに中継輸出されており、マニラはスペインの対中国交易の最前線として機能した。
九州諸大名の交易船派遣
天正十二年(1584)六月、ルソンを発したスペイン船が日本の平戸に入港したことを契機として、日本からもスペイン領フィリピンとの貿易が開始される。天正十三年(1585)、平戸領主の松浦鎮信はルソンに船を派遣し、天正十四年(1586)には自身がキリシタンでもあった大村純忠も長崎からマニラに商船を送っている。
総督サンチャゴ・デ・ベラは、この大村氏の派船について、平和に来航した最初の日本人船であると国王宛の書翰に記している。この大村船以後、ほぼ連年にわたって日本船がマニラに入港していく。
日本との交易品
アントニオ・デ・モルガの著書「フィリピン諸島誌」から、当時の日本-マニラ間の貿易の状況をみることができる。日本人とポルトガル人は五月末と十一月末の北風に乗じて日本からマニラに来航し、小麦や塩漬けの肉、新鮮な梨などの食糧品や、屏風や小箱、玩具などの工芸品、刀剣や甲冑などの武具類、そして大量の延板にした銀を持ってきた。
そして六、七月の貿易風で日本に帰国するが、マニラからは金や蜜蝋、鹿皮などフィリピンの産物とともに生糸や大きな壺(呂宋壷)などの中国商品、カスティリヤの葡萄酒などスペインの産物を積出したとしている。
マニラ在住日本人の人口
日本-マニラ間の貿易が盛んになるに従い、マニラやその郊外に在住する日本人も増えていった。1592年(文禄元年)、豊臣秀吉のルソン遠征を警戒したスペイン人はマニラ在住の日本人と中国人を市外の指定した地区に転住させたが、当時の在住日本人数は3、400人に上っていた。
モルガの17世紀初頭ごろの記述によれば、日本人でマニラに在留するものは、多くても500人を超えなかったとされる。日本人は長く滞在することなく帰国していたという。