戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

陳 瑞 ちん ずい

 中国徽州出身の海商・方三橋の貿易船の乗員。1548年(天文十七年)五月、日本から明国に戻った際、明軍に捕縛された。船には中国人とともに20名の日本人が乗っており、ヨーロッパ人から奪った仏郎機砲などの火器も搭載されていた。

中国海商の日明往来

 1546年(天文十五年)七月、陳瑞は、浙江省沖の双嶼にて、徽州出身の方三橋の貿易船の乗員となった。1547年(天文十六年)十二月、陳瑞の乗る貿易船は日本に渡るが、難破して修復不能となってしまう。

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 そこで船主の方三橋は、日本の中型船を1隻チャーターし、翌1548年(天文十七年)四月八日に出航。十九日には舟山列島の烏沙門に着いたが、目的地の双嶼は明軍の攻撃で壊滅していた。五月二日、陳瑞は附近の島に上陸したところを、哨戒中の明軍兵士に捕縛された(『甓餘雑集』)。

方三橋の貿易船

 陳瑞の供述によれば、方三橋が雇った日本船には、徽州など中国人50名のほか、日本人20名が乗っており、倭刀(日本刀)や倭弓(日本弓)のほか、火薬2罐、小型の鉄製仏郎機砲4〜5門、鳥嘴銃(火縄銃)4〜5挺ほどを装備していたという。また、これらの火器は、「番人」(外国人)が先年に日本に渡航した際に、合戦して奪われたものだと述べている(『甓餘雑集』)。

 方三橋の船には中国人の他に多くの日本人も乗船しており、多くの火器も搭載していたことが分かる。また、日本において「番人」との武力紛争が生じ、その際に日本人が仏郎機砲や火縄銃を奪取していたこともうかがえる。この場合の「番人」とは、ヨーロッパ人を意味すると考えられる。

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日本で襲われるヨーロッパ人

 陳瑞が乗っていた方三橋の船の火器は、ヨーロッパ人から争奪されたものだった。ヨーロッパ人が日本で襲われた例はいくつかある。

 例えば1544年(天文十三年)、大隅国の小禰寝港で、ポルトガル人が乗る中国人のジャンク船が、100隻以上の別の中国ジャンク船の襲撃を受けて火砲や火縄銃で応戦。地元の領主一族である池端重尚が流れ弾で死亡する事件が起こっている(「池端文書」)。

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 フランシスコ・ザビエルも、1552年(天文二十一年)にインドのゴアのイエズス会士に送った書簡において、もしスペイン船が日本に来航すれば、日本人はたいそう貪欲なので身に付けている武器や衣類を奪うために、乗組員全員を殺害するだろう、と警告している*1

 実際に1561年(永禄四年)末には、薩摩半島西北の阿久根港に来航して越冬していたポルトガル商人のアフォンソ・ヴァスが、日本人海賊に殺害されている。阿久根港では海底からポルトガル製のファルカン砲(仏郎機砲の一種)が発見されており、海賊に襲撃されたヴァスの船から海中に投棄された可能性があるという。

参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)

鳥嘴銃(鳥銃) 籌海図編19(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:ザビエルの協力者であったイエズス会士のフランシスコ・ペレスも、ポルトガル船が日本に渡航すれば、「ポルトガル人と日本人の間に争いが起こらないことは、ほとんどない」と述べている。