戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

鳥銃 ちょうじゅう

 ヨーロッパから伝来した火縄銃。中国明朝の時代、「鳥銃」や「鳥嘴銃」あるいは「鳥槍」と呼称された。鳥を狙撃し得るほどの命中精度を誇るためとも、その形状が鳥の嘴に似るためともいう。のち清朝の時代には、主に「鳥槍」と称された。

明朝への鉄炮伝来

 鄭若曾の『籌海図編』によれば、鳥銃の製法は「西番」(ポルトガル)から伝来したが、当時は精妙に模造できなかったという。1548年(天文十七年)、浙江沖の密貿易拠点である双嶼を明軍が攻撃した際、銃に精通する「番酋」が捕らえられ、彼を通じて鳥銃と火薬の製造技術が改めて明朝に伝わった(『籌海図編』巻13計略六)*1。双嶼ではポルトガル人を含む多くの外国人が捕らえられている。「番酋」は、そんな彼らの一人だったと推定される。

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 また双嶼を拠点とした中国人密貿易者の許棟や胡勝は、マラッカをはじめとするポルトガルの貿易拠点に渡航し、生糸・絹・綿布・磁器などを輸出し、胡椒・蘇木などの南洋産品のほか、「大小の火銃」も輸入していた(『甓餘雑集』)。「大小の火銃」とは、ポルトガル人がインドのゴアや東南アジアで現地生産していた仏郎機砲や火縄銃を指すと考えられる。

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 1543年(天文十二年)、浙江海道副使が双嶼を攻撃した際にも、彼らは「大小の鉛子火銃」を発して撃退したという(『甓餘雑集』)。「鉛子火銃」とは、鉛の弾丸を発する火縄銃を指すとみられる。

 その後、戚継光らによって鳥銃は積極的に導入された。16世紀半ば、倭寇対策や北辺防衛に少なからぬ効果をあげたという。

日本製鉄炮との性能差

 16世紀末の朝鮮の役において、朝鮮半島に派遣された明軍は、大将軍砲や虎蹲砲、仏郎機砲といった各種大砲、鳥銃、三眼銃、火箭などの火器を準備していた(『経略復国要編』)。

 1593年(文禄元年)、明軍を統率する宋応昌は、日本軍の鳥銃(鉄炮)の性能の高さを認めた上で作戦を指示。それは、まず大型火器で挑発して鉄炮を撃たせ、相手の弾が尽きれば攻撃を加える、というものだった(『経略復国要編』)。明軍の装備する鳥銃などの火器の性能が、日本軍の鉄炮に正面から対抗することが出来なかった状況がうかがえる。

 両者の優劣の背景に、製造方法の違いがあった。1591年(天正十九年)の何良臣『陣紀』には、明朝の鳥銃は5〜7発も連発すれば、銃身内は熱を帯び破裂の危険性があるのに対し、日本の銃はその心配が無いとの指摘が記されている。

 当時、明朝の火器は鋳銅製であったが(『神器譜或問』)、日本の鉄炮は鍛鉄製であり、耐久性に優れていたと考えられる。この為か、朝鮮の役の後、明朝での火器製造は、鋳銅から鍛鉄へと移行したという(『神器譜或問』)。

日本式鉄炮の導入

 朝鮮の役の最中、明軍は積極的に日本軍の鉄炮獲得をはかった。1594年(文禄三年)二月、朝鮮備辺司は、従来朝鮮軍が獲得した日本軍の鳥銃は、全て明軍の要求に応じて「元帥」(李如松)のもとに送られていた、と述べている(『宣祖実録』巻48)。

 日本軍から獲得した鉄炮は、明朝の別の戦役に投入された。明将の劉綎は、朝鮮からの帰還後、四川播州で勃発していた楊応龍の乱鎮圧に転戦。1600年(慶長五年)六月には、麾下の「真倭」数人とともに「鳥銃」を携えて楊応龍軍の城塞に突入し、敵を敗走させたという(『平播日録』)。「真倭」とは、朝鮮の役で降伏し劉綎軍に組み込まれた日本兵*2であり、「鳥銃」は日本軍から獲得した鉄炮であったと考えられる。

 朝鮮の役や楊応龍の乱を経て、日本式鉄炮の評価は明朝に広がったらしい。『神器譜』巻1「防虜車銃議」には、1602年(慶長六年)前後の遼東における女真やモンゴルとの攻防に関して、彼らを撃退できるのは日本の鳥銃しかない、と記されている*3。この日本の鳥銃とは、日本軍から獲得した鉄炮か、それをもとに模造された日本式の鉄炮を指すものとみられる。

ヨーロッパの新式鉄炮

 ゴンサーレス・デ・メンドーサ『シナ大王国誌』には、1575年(天正三年)の福州における状況として、明朝の巡撫が、スペインの軍人の剣1振と火縄銃1挺、火薬壺1個の借用を要請したことが記されている。目的はそれらの模造であったという。スペインの鉄炮が、福建に伝来したことがうかがえる。

 このように、中国東南の沿岸地域には、各種の鉄炮を入手・模造しうる環境があった。1596年(慶長元年)、京営*4の遊撃将軍として北京に到来した陳寅が、趙子楨に「西洋番鳥銃」(ヨーロッパ式鉄炮)を示している(『神器譜』巻2「原銃・上」)。陳寅は、以前は浙江において倭寇討伐に従事しており、その中でヨーロッパの鉄炮を入手し、火器技術を習得していたとみられる。

 陳寅の「西洋番鳥銃」は、日本の鉄炮と比較して銃身がやや長く、軽量であり、一方で従来の鳥銃と比べると五・六十歩ほど射程が長かったという(『神器譜』巻2「原銃・上」)。趙子楨は朶思麻*5や陳寅から、嚕蜜銃オスマン帝国鉄炮)や西洋番鳥銃の製造方法を学び、その模造に成功した(『神器譜』巻1「進神器疏」)。

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 当時は朝鮮の役終結以前であり、明朝では日本の鉄炮に対抗できる火器に対する関心が高まっていた。1596年(慶長元年)、趙子楨は日本の鉄炮を破るものとして「番銃」(外国の鉄炮)の量産を建議。翌1597年(慶長二年)、量産の見本として嚕蜜銃と西洋銃を進呈している(『神器譜』巻1「聖旨八道」)。

17世紀前半の北辺防衛

 17世紀前半、明朝では女真族の軍事的脅威が切迫していた。1619年(元和五年)のサルフの戦いでの大敗以後、女真族の攻勢により1621年(元和七年)には瀋陽と遼陽が陥落するなど明朝は後退を重ねていた。

 これに対抗するため、明朝の徐光啓は、マカオポルトガル人から紅夷砲(高性能のヨーロッパ式大砲)を購入するなど、新式火器の導入を推進。同時に鳥銃の更新も図っていく。

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 1629年(寛永六年)、徐光啓は、小型の鳥銃では女真族の鎧を貫通することができないとして、大型鳥銃千門の製造を提言(『徐光啓集』上)。徐光啓はまた、守城の際は紅夷砲とともに高い命中精度と射程距離とを兼ね備える「大鳥銃」が効果を発揮するとも伝えている(『徐光啓集』上)*6

 徐光啓が導入を提言した鳥銃もまた、マカオポルトガル人から購入した新型のヨーロッパ式鉄炮であったとみられる。1630年(寛永七年)、明朝はポルトガル当局から「鷹銃」や「西式藤牌」といったこれまでにない新式兵器とともに、「鳥嘴護銃」千梃を購入(『徐光啓集』上)。また同年、徐光啓は上疏の中で、「鷹嘴銃」41門、「鳥銃」65門を製造し、「鳥銃」300余門は未完であると述べている。この時「鷹嘴銃」(鷹銃)とともに製造された「鳥銃」は、マカオから新たに将来されたヨーロッパ式の鉄炮をモデルとしたものであると推定される。

参考文献

  • 中島楽章 「一五四〇年代の東アジア海域と西欧式火器」(『南蛮・紅毛・唐人ー一六・一七世紀の東アジア海域ー』 思文閣出版 2013)
  • 久芳崇 「十六世紀末、日本式鉄砲の明朝への伝播」(『東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲』 吉川弘文館 2010)
  • 久芳崇 「十七世紀初、西南中国における火器の伝播と普及」(『東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲』 吉川弘文館 2010)
  • 久芳崇 「明末における新式火器の導入と京営」(『東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲』 吉川弘文館 2010)

鳥嘴銃(鳥銃) 三才図会27(国立公文書館デジタルアーカイブ

鳥嘴銃(鳥銃) 籌海図編19(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:嘉靖『定海県志』巻7「海防」にも、総兵の盧鏜が、双嶼を破り、寇の所持していた鳥嘴銃と火薬とを得て、はじめてその製法が広まった、と記されている。

*2:1600年(慶長五年)三月、劉綎は明朝の正規軍や子飼いの家丁(私兵)とともに「日本降夷」を率いて楊応龍軍と戦い勝利を収めたという(『平播全書』)。

*3:降伏した日本の鉄炮兵は、朝鮮の役終結以前から明朝の北辺防御に投入された。『神器譜』巻4「説銃六十九條」によれば、1597年頃、遼東において「降倭」20余人が銃を用いて数十人のモンゴル人を殺害したという。またモンゴル人1万人余りが義州城下に迫った際には、降倭の鳥銃がモンゴル側の首領を負傷させ、襲撃を退けたという(『神器譜』巻1「防虜車銃議」)。

*4:北京駐在の禁軍組織。

*5:オスマン帝国の火器管理官であった人物。16世紀中頃に同国の使節の一員として明朝に到来し、そのまま留まっていた。趙子楨にオスマン鉄炮である嚕蜜銃の製造方法を伝えた。

*6:徐光啓は、北辺防衛においてこれまで主に使用されていた快鎗や夾靶、三眼鎗は、射程距離や命中精度が著しく劣り、その使用は弾薬の無駄であるとし、「大鳥銃」の整備と多くの射手の教練とが達成されれば、それらは皆廃棄すべきであるとしている。