戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

上川 さんしぁん

 広州湾沖の西南に浮かぶ上川島の港町。浙江や漳州での通商に失敗したポルトガル人が、新たな交易拠点とした。ポルトガル人の日本渡航の際の中継港でもあった。

東南アジアと中国・日本を結ぶ交易港

 1549年(天文十八年)七月、マラッカから日本に向けて航海してたフランシスコ・ザビエルは、暴風雨に遭遇した後、「カントン」の港に滞在した。この港は上川と推定される。船長や船員は「カントン」での越冬を予定していたが、ザビエルは強行に反対。結局、船はチンチェオに寄港した後、八月十五日にザビエルは鹿児島への上陸を果たす。

 1551年(天文二十年)、ザビエルは日本での活動に区切りをつけ、インドのゴアに戻ることになった。フェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』によれば、ザビエルはドゥアルテ・ダ・ガマの船に乗船し、十二月初め頃に豊後府内から出航。航海中、暴風雨に見舞われながらも、十二月三十日頃に「ポルトガル人による交易の行われていたサンシャン(上川)港」に到着している。

 ガマの船は嵐で船首材が破損した為、シャム(暹羅)で越冬して修理することになった。入港時、ポルトガル海商ディオゴペレイラが船長をしているナウ船が、東南アジア・スンダ列島から胡椒を積載して来航していた。

 ディオゴはザビエルと旧知の間であり、ザビエルの中国入国の為に、ポルトガルのインド副王使節を仕立てる計画に賛同し協力を申し出た。ザビエルはディオゴの船に乗り、マラッカを経由してインドのゴアに渡っている。

上川と中国本土

 1552年(天文二十一年)、ザビエルは中国布教の為、上川に入港*1。この地に滞在していた旧知のポルトガル商人ジョルジェ・アルヴァレスと再会している。アルヴァレスは以前と同じようにザビエルを援助し、ザビエル一行に二ヵ月半ほど宿を提供した後、マラッカへと出港していった。

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 ザビエルがこの地から発した書簡には、上川や中国について詳しく記されている。上川の港はカントン(広州)から30レグア(約168キロメートル)の地点にあり、同地から多くの商人が交易に訪れたという。

 ザビエルは中国本土に上陸すべく、彼らに同行を求めたが、中国明朝の総督への発覚を恐れて、協力する者はほとんどいなかった*2。ザビエルの周囲の人々も、中国には国王の入国許可証なしの入国を禁じる法があるので、総督によって拷問もしくは投獄される危険があると伝えている。

 ヨーロッパ側にも中国明朝の海禁法が認識されており、上川への滞在は黙認されていても、本土のカントン(広州)への上陸は厳禁であったことがうかがえる。

 結局、ザビエルは中国本土上陸を果たせないまま、同年十二月、上川で没した。遺体は他のポルトガル人と同様に上川の浜辺に埋葬されたが、後にマラッカを経由してインドのゴアに運ばれた(『東洋遍歴記』)。

ポルトガル人の広東交易認可

 1554年(天文二十三年)、上川に滞在していたレオネル・デ・ソウザは、1割*3の抽分の支払いを条件に広東での交易を許された。

 『日本一鑑』によれば、1554年に仏郎機国の夷船が広東の海上に来て、客綱を名乗る周鷹*4が、番夷とともに他国の名を詐称し、海道副使の汪柏を誑かし、通交の許可を得たという。また、周鷹は日本人にヨーロッパ人のような扮装をさせ、広東の街へ出没し、以後頻繁に来市するようになったとしている。

 1555年(天文二十四年)七月二十日、東南アジアのパタニから日本の豊後府内を目指していたメンデス・ピントが上川に寄港した。『東洋遍歴記』によると、ザビエルが当初埋葬されていた墓は、草木に覆われ、周りを囲っていた十字架の先しか見えなかったという。ピントらは墓を清め、立派な垣根を巡らし、新たな十字架を立てた。

 上川を出航したピントは、八月三日にランパカウ(浪白澳)に到着*5。ピントは、当時のポルトガル人はランパカウで中国人と交易をしていたと記している。この頃には、広州におけるポルトガルの拠点が、ランパカウ(浪白澳)およびマカオ澳門)に移りつつあったとみられる。

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関連人物

参考文献

  • 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)
  • 岡美穂子 「南蛮貿易前史ーマラッカ以東ポルトガル人の私貿易活動」(『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』 東京大学出版 2010)
  • 岡美穂子 「南蛮貿易の起源ー個人海商たちの海」(『商人と宣教師 南蛮貿易の世界』 東京大学出版 2010)
  • メンデス・ピント(岡村多希子 翻訳) 『東洋遍歴記 3 (東洋文庫0373) 』 平凡社  1980

坤輿万国全図 国立公文書館デジタルアーカイブ

 

*1:ディオゴペレイラは、マラッカの次期長官であるアルヴァロ・アタイーデ・ダ・ガマ(ヴァスコ・ダ・ガマの子)によってマラッカに抑留されていた。

*2:200クルザド払えば、小船でカントンへ連れて行くことを請け負う者もいた。マヌエル・デ・チャベスが脱獄した際に、彼を匿った人物だったという。またザビエルは、自身が所有する胡椒をカントンで売却することによる350クルザド以上の利益と引き換えに、カントンに同行することを打診中である、と別の書簡に記している。

*3:当初は2割といわれていたが、交渉の結果1割に落ち着いたという。広東での抽分比率は1508年には3割であったが、1517年には2割となって、それが常例となったという。

*4:この周鷹はレオネル・デ・ソウザと同一人物を指すとする説があるが、一方でポルトガル船に同乗していた中国人であるとする見方もある。

*5:『東洋遍歴記』では、ザビエルの墓を整備した翌朝に上川を出航したとしているが、1555年11月20日付マカオ発のメンデス・ピントの書簡では、8月3日にランパカウに到着したと記している。