戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

3.人物-02.中国地方

江良 重信 えら しげのぶ

陶氏被官。官途名は丹後守。陶弘房とその子弘護に仕えた。応仁文明の乱では、在国して所領支配を担当した。大内教幸(道頓)が大内政弘に反乱を起こすと、弘護による石見益田氏との交渉に関わった。

柿並 房友 かきなみ ふさとも

陶氏被官。陶隆房(晴賢)に仕えた。官途名は市佑、のちに佐渡守か。天文年間に陶氏の奉行人や東福寺領得地保の代官を務めている。厳島合戦で陶晴賢の身代わりとなって討死した柿並佐渡入道と同一人物の可能性がある。

柿並 四郎三郎 かきなみ しろうさぶろう

大内氏被官。天文三年(1534)の豊後薄野浦で警固衆として戦った。江戸期編纂の「譜録」は、柿並氏を大内教弘の子で長門国阿武郡柿並谷に拠った弘慶に始まるとする。なお「譜録」では、天文年間に隆幸、隆正の名がみえるが、史料上での確認はできない。

江良 神六 えら じんろく

陶氏被官。深野房重の孫で、養子として江良氏に入った。厳島合戦後、祖父の功績により毛利氏に仕えた。毛利家中では赤川元保が後ろ盾となったが、毛利隆元からの評価は辛かった。

江良 愛童 えら あいどう

毛利家臣。江良賢宣の子。愛童は幼名で実名は不明。父の討死後、幼くして跡を継いだ。天正年間にみえる毛利家臣・江良弾正忠と同一人物と考えられている。白井晴胤に嫁いだ姉妹がいる。

江良 賢宣 えら かたのぶ

陶氏被官。官途名は弾正忠。陶晴賢に仕えて廿日市支配を担当。毛利氏の周防侵攻に際しては、都濃郡須々万沼城で頑強に抵抗し、降伏後は毛利氏の防長経略に協力して活躍した。少なくとも二人の子がおり、一人は嫡男の愛童(実名不明)、もう一人は息女で白井…

新里 隆溢 にいざと たかみつ

大内家臣。厳島神領衆。官途名は若狭守。新里若狭守の子か。大内氏の赤間関支配を担い、後に安芸国佐西郡支配に関与した。

江良 藤兵衛尉 えら とうひょうえのじょう

陶氏被官。陶興房に仕えた。永正八年(1511)八月の船岡山合戦で活躍し、周防国都濃郡須々万に所領を得た。益田氏への使者も務めていることから、興房の側近であったと考えられる。

江良 主水正 えら もんどのじょう

陶氏被官。弘治二年(1556)四月、須々万沼城の戦いで討死した。実名は不明だが、天保四年(1833)に正司考祺が著した『豹皮録』には「江良主水隆綱」とみえる。

江良 昌泰 えら まさやす

陶氏被官。官途名は但馬守。陶興房の嫡子・興昌の偏諱を受けたとみられる。興昌死後は、興房の跡を継いだ隆房に仕え、奉行人として安芸国や周防国の支配に関わった。

梨子羽 景運 なしわ かげゆき

沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。仮名は又次郎。官途名は中務丞。平賀興貞の子で、同広相の弟。梨子羽康平の養子となって梨子羽氏の跡を継いだとみられる。小早川家中の上位にあり、出雲、伊予、備中などでの軍事活動が確認できる。

梨子羽 康平 なしわ やすひら

沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。官途名は刑部少輔、後に備後守か。小早川敬平の三男で扶平の弟。譜代被官の真田氏や一族の船木常平らとともに惣領家を支えた。

上原 宗安 うえはら むねやす

備後国世羅郡大田庄上原を本拠とする国人・上原氏の家臣。上原元将(元祐)の側近とみられ、織田方の羽柴秀吉との交渉を担当した。後に京極氏に仕えた。

楊井 虎女 やない とらめ

毛利家臣・楊井武盛の息女。元亀三年(1572)に父から所帯を譲られている。夫は楊井春俊、子は楊井規春か。

楊井 武盛 やない たけもり

大内家臣。幼名は万壽。仮名は彌七。官途名は右京亮、後に但馬守。楊井国久の次男だが、楊井春盛の養子となってその跡を継いだ。主家滅亡後に仕えた毛利家中では、その医術の評価が高かった。

警固屋 善兵衛 けごや ぜんのひょうえ

安芸国安南郡警固屋(現在の呉市警固屋)を本拠とした警固屋氏の一族か。弘治二年(1556)以前に周防国熊毛郡に知行を得ていた。警固屋氏は防芸引分で大内方となり、大内氏の最終局面まで従っている。

杉 甲斐守 すぎ かいのかみ

大内家臣。周防国玖珂郡日積村に知行を得た杉氏の一族か。永正・大永年間に安芸国石道本城に入り、厳島神領支配の一角を担った。天文十七年(1548)には、備後国神辺村尾城攻めの検使として弘中隆兼、小原隆言とともにみえる。

吉井 行貞 よしい ゆきさだ

大内家臣。官途名は蔵人。周防国大島郡屋代庄の土豪か。大内氏の警固衆として活動した。厳島合戦前後に急死したらしい。

高崎 六郎次郎 たかさき ろくろうじろう

沼田小早川氏の庶子家である高崎氏の当主か。応仁文明の乱では、東軍方の惣領家に従わず、西軍の周防大内氏の援軍とともに高崎城に立て篭もった。

土倉 民部少輔 とくら みんぶのしょう

沼田小早川氏の庶子家である土倉氏の当主か。官途名は民部少輔または民部大輔。15世紀中ごろから後半にかけて、沼田小早川氏の軍事行動で活躍した。

大草 持範 おおぐさ もちのり

沼田小早川氏の庶子家である大草氏の当主。官途名は駿河守。沼田新荘の大草村(現在の広島県三原市大和町大草)を所領とした。同地の堀城および高城は大草氏の城と伝わる。

今倉殿 いまくら どの

備後南部、芦田川河口部の港町草戸を拠点とした金融業者。草戸千軒町遺跡から出土した15世紀後半の木簡にその名が見える。

工 十郎兵衛 たくみ じゅうろうひょうえ

安芸国安北郡深川の檜物師。毛利元就から「佐東領中檜物師」の頭領に任じられた。

長崎 房康 ながさき ふさやす

大内家臣。幼名は道祖寿丸。仮名は小太郎。官途名は兵部丞。長崎元康の子。事秀の父。自身と同じ屋代島衆の沓屋景頼に嫁いだ妹がいる。毛利氏の出雲侵攻の際、警固衆として活躍した。

長崎 房次 ながさき ふさつぐ

大内家臣。仮名は小太郎。官途名は隼人佐、後に丹後守。長崎安親の子。元直、但馬守某、真定の父。娘が二人おり、沓屋景頼の子の喜三郎・元綱兄弟に嫁いだ。厳島合戦後に屋代島衆をまとめて毛利氏に仕え、防長経略や豊後大友氏との合戦で警固衆として活躍し…

長崎 元康 ながさき もとやす

大内家臣。幼名は才徳丸。仮名は弥八郎。官途名は与三右衛門、後に左近将監。長崎安親の養子。房康の父。沓屋景頼の妻となった娘がいる。大内氏の合戦で警固衆を率いて活躍したが、天文十二年(1543)、出雲遠征において討死した。

長崎 勝親 ながさき かつちか

大内家臣。仮名は小太郎。官途名は勘解由左衛門尉。周防国大島郡島末庄を本拠とする長崎氏の当主。盛親の子で、重親の孫にあたる。

長崎 重親 ながさき しげちか

大内家臣。官途名は隼人佐、後に丹後守。盛親の父。周防国大島郡島末庄を本拠とした。大内盛見死後は、持世に味方してその勝利に貢献した。

梨子羽 元春 なしわ もとはる

沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。官途名は右京亮。元位の子か。大内義興に従い、幕府から梨子羽郷地頭公文両職などを安堵された。

梨子羽 元位 なしわ もとただ

沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。熈景の子で、元春の父か。史料上の初見は延徳三年(1491)頃。元位が生きたと思われる応仁文明の乱から15世紀末頃までの間で、梨子羽氏をとりまく環境には大きな変化があったことが推定される。