3.人物-02.中国地方
大内氏の長門守護代内藤氏の被官。内藤氏のもとで赤間関代官を担ったとみられ、赤間関問役の佐甲民部左衛門尉は温科兵庫允と相談して公事銭の徴収にあたるよう命じられている。
周防大内氏の重臣である陶氏の家臣。官途名は掃部助。実名の「護」は陶弘護あるいは武護からの偏諱か。陶氏の有力家臣の一人であり、東福寺の申次も務めていた。
清浄華院第28代住持。満蓮社定誉。弟子に良休、然休の二人がいる。波根の領主富永氏の一族とみられ、毛利氏に協力して富永氏への調略を行い、複数の寺院を寄進された。
安芸国賀茂郡の住人。天長十年(833)十月に孝行を称されて位三階に除され、税を免除されたことが『続日本後紀』にみえる。江戸期に安芸国を代表する孝子として儒学社頼杏坪に言及される。
安芸国の蒲刈島を本拠地とする蒲刈多賀谷氏の当主。子に興景。大永三年(1523)に出雲尼子氏に降伏したことが、江戸期編纂の「譜録」にみえる。
石見国都野郷の国人領主・都野氏の当主。官途名は刑部少輔。都野長保の子か。毛利氏に味方して勢力拡大をはかり、上村・神主の権益を回復した。また都野氏が江津へと本拠を移した時期は隆保の時代と推定されている。
石見国都野郷の国人領主である都野氏の当主。官途名は新左衛門尉、後に駿河守か。都野隆保の父とみられる。尼子方の安濃郡大田郷作山攻めに石見吉川氏、石見小笠原氏らとともに加わり戦功を挙げる。また江津を実効支配していたことが「益田家文書」にみえる。
石見国都野郷の国人領主である都野氏の当主。官途名は遠江守。実父は小笠原長定(石見国邑智郡河本郷の国人領主)。実兄は小笠原長隆。大内義隆によって所領を江城料所として指定され、福光郷に替地が与えられた。
石見銀山の住人。浄土宗系の在家信者とみられる。弘治三年(1557)、妻とともに発願して板碑(板状に加工した石でつくられた供養塔の一種)を建立した。この板碑は「弘治三年銘 阿弥陀三尊種字 六字名号 自然石板碑」と呼ばれている。
鎌倉末期に備後国で活動した刀鍛冶。のちに水呑(福山市)・草戸周辺を拠点に広がった“法華派刀鍛冶”の祖とされる。日蓮の弟子・日像に帰依し、開基として妙顕寺建立に尽力した。
鎌倉中期の備前・福岡一文字派を代表する刀工。父は吉家で、弟に吉友、また婿には吉房がいたとされる。紀州徳川家に伝来し、現在は国宝に指定されている太刀を作った刀工として知られる。
平安期の備前国の鍛冶。天徳四年(960)に内裏で焼損した霊刀二腰の鍛造にあたった。備前鍛冶の祖とされる。
室町初期に活躍した備前国長船派の刀工。官途名は右衛門尉か。応永年間に活躍した備前国の刀工とその作刀は「応永備前」と呼ばれ、康光は同時代の盛光とともに応永備前を代表する刀工とされる。
備前国宇甘(岡山市北区御津周辺)を拠点とした刀工。初代と二代がおり、鎌倉末期頃に活躍した。
安芸国山県郡戸谷の住人。仮名は又五郎。大工として山県郡吉木の宇都宮神社建立に関わった。父とみられる香川又五郎は、同郡有田の有田八幡宮建立に関わっている。
永正五年(1508)に山県郡吉木(北広島町吉木)の宇都宮神社を大檀越として造営した人物。山県郡阿坂を本拠とした国人領主安芸笠間氏の一族とみられる。
北条氏の一族。観応元年(1350)、安芸国在地勢力の大将となって毛利親衡らとともに挙兵し、安芸守護武田氏ら足利尊氏方と戦った。
壬生の武士か。観応元年(1350)六月に足利直冬に呼応し、反尊氏方として挙兵して猿喰山城に盾籠った。
壬生の神官。仮名は八郎大夫。官途名は勘解由次官(勘解由丞)、のちに豊前守の受領名を名乗るか。壬生八幡宮・壬生新宮などの神事に関わった。
安芸国山県郡壬生を本拠とした国人領主。実名の「元」は安芸武田氏の惣領家である武田元信(若狭武田氏当主)の偏諱とみられる。永正十二年(1515)六月に毛利氏に降伏したが、以後、壬生では諸勢力の争奪戦が繰り返される。
安芸国山県郡の国人領主。本拠城は阿坂(北広島町阿坂)の笠天山城か。天文十八年(1549)四月に嫡子の修理亮への家督相続が大内氏から認められた。もとは武田氏に従属していたとみられ、実名の「元」は安芸武田氏の惣領家である武田元信あるいは元光(…
安芸武田氏の当主。佐東金山城主。官途名は刑部少輔。元綱の子。光和の父。当初は惣領家である若狭武田氏の安芸国における代官的地位にあった。
応永十二年(1405)、田利八幡神社(広島県三次市三良坂町田利)に木造神像を寄進した人物。名字は不明。同じく本姓を藤原とする広沢氏、または広沢氏から分かれた和智氏・多利氏の一族と推定される。
石見国邑智郡阿須那本拠地とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。官途名は民部少輔。その姓から雪田村(島根県邑南町雪田)を拠点としたとみられる。
備後国御調郡海裹荘(世羅町宇津戸)の代官。官途名は式部大輔。備後守護代犬橋満泰の被官か。永享十二年(1440)に願主として地頭八幡宮社殿造営に関わった。
邑智郡君谷(島根県美郷町君谷川流域)を本貫とする国人。実清の子で祐忠の父。仮名は三郎二郎。官途名は弾正左衛門尉。出家後は道祐の法名を名乗る。南北朝期、北朝方として軍功を挙げ、邑智郡の上下出羽郷地頭職を得た。
石見国邑智郡阿須那(現島根県邑南町)を本拠とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。文明八年(1476)九月の契約状に署名がみえる。その姓から邑智郡上出羽郷を拠点としていたとみられる。
石見国邑智郡阿須那(島根県邑南町阿須那)を本拠地とした国人領主石見高橋氏の家臣。家中の有力者の一人。官途名は下野守。
石見国邑智郡出羽郷を拠点とした刀工。銘に「直綱」あるいは「石州出羽住直綱」と切る。活動時期は南北朝期から室町初期にかけてであり、初代直綱から数代続いたとされる。
備中笠岡の刀工。備後の鞆の刀工貞次の子。15世紀後半、笠岡城主陶山宗兼の招きで笠岡に移住したとみられる。