戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

江良 神六 えら じんろく

 陶氏被官。深野房重の孫で、養子として江良氏に入った。厳島合戦後、祖父の功績により毛利氏に仕えた。毛利家中では赤川元保が後ろ盾となったが、毛利隆元からの評価は辛かった。

深野房重の孫

 天正年間、小早川隆景は内藤元栄に宛てた書状の中で、陶隆房被官・深野平左衛門尉房重と毛利元就との関係を説明し、房重孫・深野平右衛門尉への配慮を求めている(「御書御判物控一」)。

 深野房重は毛利氏の窮地を救った大恩人だったらしい。天文十年(1541)、房重は尼子方に包囲された吉田郡山城陶隆房に従って来援。同年一月十三日、宮之尾で毛利方が切り崩されそうになった際、房重は陶軍を動かして後詰に駆け付けたが、尼子下野守久幸と戦って討死した。この合戦は郡山合戦でも最大規模のものとなり、尼子方は夜間に退却した。

 毛利元就はこの時の房重の「忠儀」を忘れることはなかったという。

 また房重には深野平右衛門尉の他に陶氏被官・江良氏の養子となった孫がいた。この「江良養子」は、天文二十四年(1555)の厳島合戦で毛利方の捕虜となったが、元就のはからいで助命され「江良跡目」とされた。

周防富田の調略

 弘治三年(1557)三月三日、城衆の江良賢宣小早川隆景の調略に応じたことで、長らく毛利方への抵抗を続けていた周防国都濃郡須々万の沼城が陥落した(「毛利家文書」「萩藩閥閲録」巻84)。

 毛利氏は続けて陶氏の本拠である周防富田の攻略に着手。同年三月十八日、毛利元就は富田地下人の調略を「江良神六」「八木」「伊香賀内渡辺」に期待していると赤川就秀に伝えている(「萩藩閥閲録」巻32)*1。この江良神六こそ、上述の深野房重の孫で「江良養子」となっていた人物と考えられている*2

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 ただ神六は期待された成果を挙げることができなかったらしい。毛利隆元小早川隆景宛の書状の中で、神六は今度の戦いにおいて何の忠節もなく、「下衆」(防長の大内氏旧臣や地下人)を従わせることもせず、全てにおいて心がけが悪い、と酷評。一方で須々万で味方となった江良賢宣は、若山城だけでなく、鹿野や得地、さらに山口攻略でも活躍したとしている(「毛利家文書」)。

小早川隆景赤川元保の不仲

 弘治三・四年(1557・58)頃、毛利隆元実弟小早川隆景と家臣・赤川元保の不仲に頭を悩ませていた。背景には「江弾」(江良弾正忠賢宣)と「神六」(江良神六)の不仲があり、隆景が賢宣に、元保が神六に、それぞれ肩入れしたことが両者の不仲にもつながっていた。

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 隆元の認識では、上述のように江良賢宣は防長経略で多くの実績をあげている一方で、厳島で助命して召し抱えた神六は、特段の功績も無いのに過分の所領を与えられていた。そんな神六を赤川元保が引き立てようとしていることについて、「更無曲仕合迄候」(全くもって情けないことだ)と小早川隆景に伝えている(「毛利家文書」)。

毛利隆元の怒り

 隆元は神六の所領を「過分」と考えていたが、神六は加増を要求していた。毛利隆元は家臣宛の書状で「江良詫言之儀」(江良の嘆願)への対処を指示し、所領を300貫も与えたのだから、これで我慢するよう言い聞かせるべきだと述べている(「毛利家文書」)。

 隆元はこの「江良詫言」について書状内で不快感をぶちまけている。

 本来は命を取るところを仕官させ、300貫の所領を与えているだけでも「莫太の恩」であるのに、他にどのような忠節があってこのような事を言ってくるのか、全くもって思いもよらない。

 そもそも毛利家の親類・重臣である福原や桂でさえ300〜400貫も与えていないのに、江良や毛利与三(元堯)などの陶氏旧臣に500貫とか300貫とか与える事は、本来おかしいことだ。

 それでも赤川元保を通じて訴えてきた場合は、以下のように対処するよう指示している。

江良の事を取り次ぐように赤川元保には命じていない。一方で江良房栄などの時は誰もが取り次ぎをした。其方が江良の要求を実現できなかったとしても誰も気づかないし、誰かに気づかれても問題はない。よく「分別」するべきである、と。

参考文献

  • 鹿野町誌編纂委員会 編 『鹿野町誌』 1991
  • 和田秀作「戦国時代の江良氏について〜毛利氏との関係を注進に〜」(『令和4年度山口県文書館オンライン歴史講座②』 2022)

大日本古文書 家わけ八ノ二 毛利家文書之1-4 毛利隆元自筆書状
国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:八木氏と伊香賀氏はともに陶氏の旧臣である。

*2:天文六年(1537)四月、陶興房は花岡八幡宮の地蔵院を管理していた人物を見つけ次第成敗するよう「江良神六」に命じている(「花岡八幡宮文書」)。陶氏被官の江良氏に「神六」を仮名とする系統があったことがうかがえる。他に官途名を丹後守とする系統(重信、房栄)と、弾正忠とする系統(賢宣、愛童)が確認されている。