戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

江良 賢宣 えら かたのぶ

 陶氏被官。官途名は弾正忠。陶晴賢に仕えて廿日市支配を担当。毛利氏の周防侵攻に際しては、都濃郡須々万沼城で頑強に抵抗し、降伏後は毛利氏の防長経略に協力して活躍した。少なくとも二人の子がおり、一人は嫡男の愛童(実名不明)、もう一人は息女で白井晴胤に嫁いでいる。

安芸国佐西郡廿日市の支配

 天文二十年(1551)八月二十八日、陶隆房大内義隆に対して挙兵し、大寧寺の変が勃発する。挙兵に先立つ八月二十日、陶氏被官・大林某が厳島を占領。佐西郡の要衝である廿日市桜尾城も「惣公文新里」(新里隆溢)とともに城督・鷲頭興盛を説得して、城を明け渡させた(『房顕覚書』)。

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 江良賢宣は鷲頭興盛退去後に桜尾城に入り、廿日市支配を担当した。年未詳四月、毛利房継、伊香賀房明、江良房栄の陶氏奉行人三名が連署でもって、社家衆の抱える廿日市中屋敷を本来の持ち主に去り渡すよう、賢宣に命じている(「厳島野坂文書」)。

 佐西郡支配の方針は、おおむね従来の政策を引き継いだものだった。江良賢宣と同房栄は、廿日市の洞雲寺に対し、大内義興・義隆から認められていた寺領の諸役免除を引き続き安堵する旨を連署で伝えている(「洞雲寺文書」)。

 また賢宣は「御分国中鋳物師上司公役」を廿日市の鋳物師と「鉄屋」に申し渡している(「真継文書」)。廿日市の鋳物師については、天文十八年(1549)十二月以降、大内氏の奉行人奉書により、諸国の鋳物師を統括する真継家に対し役銭を納めることになっていた。陶晴賢もこの方針を踏襲し、賢宣に命じていたとみられる。

「毛利方大儀眼前候」

 天文二十三年(1554)五月、石見吉見氏は津和野三本松城を陶晴賢に攻められ、津和野北方の下瀬山城に近隣の有力国人・益田藤兼の攻撃を受けていた。そんな中、吉見方の下瀬山城衆は益田藤兼が味方に宛てた五月二十五日付の書状を入手する(「萩藩閥閲録」巻148)。

 書状の大意は以下のようなものであった。

 昨夕、安芸国から注進があり、毛利氏の裏切りが決定的となった。毛利勢は十二日に佐西郡廿日市まで進み、児玉就方を将として桜尾城を攻撃した。しかし城の切岸にて、「熊害」(熊谷氏)が寝返って毛利勢を切り崩し、六十三もの頸をとった。三吉氏、小早川氏も熊谷氏に同意しており、毛利方の「大儀」(苦境)は眼前である。

 「屋形」(大内義長)は、陶兵庫頭(隆秋)と弘中三河守(隆兼)の両人を進発させており、陶晴賢も江良弾正忠(賢宣)と毛利与三(元堯)を毛利鎮圧に向かわせている。勝利は疑いない。

 しかし、これは虚報だった。

防芸引分

 五月十二日、安芸国内の大内氏方拠点への侵攻を開始した毛利勢は、その日のうちに佐東金山城、己斐城、草津城を落とし、佐西郡廿日市に進出。大内方は五日市で合戦におよぶも(「萩藩閥閲録」巻128、132、170他)、毛利方を止めることができなかった。

 桜尾城には江良賢宣と毛利元堯のほか、神領衆の「己斐」(己斐豊後守か)と「新里」(新里隆溢か)がいたが、同日中に毛利方の吉川元春熊谷信直、洞雲寺住職の説得に応じて開城(『房顕覚書』「洞雲寺文書」「熊谷家文書」『森脇覚書』「萩藩閥閲録」巻62))毛利元堯は周防山口に退去し、賢宣は「足弱共」を周防国玖珂郡岩国まで送り届けつつ撤退した(『二宮佐渡覚書』)。「己斐」と「新里」は毛利氏に降った。

 この後、陶晴賢被官・江良房栄は周防・安芸の大内方警固衆とともに毛利方と戦うも、翌天文二十四年(1555)三月、晴賢の依頼を受けた大内家臣・弘中隆兼に討たれた(『房顕覚書』)。晴賢、隆兼も同年十月の厳島合戦で敗死する。

須々万沼城の戦い

 厳島合戦後、周防国に侵攻した毛利方は、弘治二年(1556)三月頃までに同国東部の大内方を鎮圧。四月、都濃郡須々万の沼城に迫った。

 須々万沼城には山崎伊豆守、同右京進父子のほか、陶氏被官の江良主水正と伊香賀左衛門大夫が籠城していた。また大内義長からは須子下総守、三輪兵部丞等が応援として派遣されていた(『大内氏実録』)。

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 弘治二年(1556)四月四日、沼城は毛利方の小早川隆景の攻撃を受け、江良主水正が討死(「萩藩閥閲録」巻61)。四月二十日には毛利隆元を撃退し、翌日撤退する毛利勢を追撃している。九月二十二日にも攻撃があり、須子下総守、三輪兵部丞らが討死した(『大内氏実録』)。

 沼城には、江良賢宣と宮川伊豆守も入っていた。毛利元就は「陶方家人共江良弾正忠、宮川伊豆守を初として宗徒之者共指籠候」と述べており、両名を「陶方家人」の代表的な人物として認識していた(「萩藩閥閲録」巻84)。

 弘治三年(1557)二月二十九日から三月二日にかけて、毛利方による総攻撃が行われ*1、三月三日に沼城は陥落した(「萩藩閥閲録」巻84)。毛利隆元が後に語るところによれば、江良賢宣が沼城に籠城して頑強に抵抗していたのを、小早川家臣・乃美宗勝が調略をかけて味方に引き入れたことで、「手こわき敵城」をたやすく落城させることができたのだという(「毛利家文書」)。

 落城後、山崎父子は自害。賢宣と宮川伊豆守は毛利氏への降伏が認められ、沼城の仮の城督に任じられた(『大内氏実録』)。

防長経略での活躍と江良神六との不仲

 毛利氏に降った江良賢宣は、鹿野*2、徳地を毛利方に服属させた。さらに陶氏の本拠である富田若山城を陥落させ、そのまま周防山口に先兵として攻め入り、高嶺と姫山の両城を落城させた。

 毛利隆元は賢宣の活躍を高く評価していた。弘治三・四年(1557・58)頃の小早川隆景宛の書状の中で、賢宣のおかげで大内家を手間をかけずに攻略できたとし、この時の「江弾」(江良弾正忠賢宣)の忠義は誰よりも大きいものだったと述べている。

 一方で賢宣は同族の江良神六という人物と不仲だったらしい。また賢宣には小早川隆景が、江良神六には毛利家臣・赤川元保が肩入れしており、隆景と元保の不仲も深刻化する事態となっていた。隆元も賢宣に比べて働きが劣る神六に不満をもっており、全てにおいて心がけが悪い、と隆景に伝えている。

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石見小笠原氏攻め

 弘治三年(1557)四月二日、大内氏最後の拠点となった長門且山城が陥落し、内藤隆世が自害。翌日、大内義長も自害して大内氏は滅亡した。

 長門国の制圧が完了した毛利氏は、石見小笠原氏攻めを開始。義長自害の翌日である四月四日、毛利元就吉川元春の要請を容れて小笠原氏の支城である井原雲井城への攻撃を認めたと家臣に伝えている(「萩藩閥閲録」巻84)。

 この小笠原氏攻めには賢宣も動員されており、同年十二月二十日、井原元造の副将として石見国の井原要害(邑智郡)に着陣した。毛利隆元は賢宣着陣を元造に伝え、明後日に出陣するよう命じている(「井原家文書」)。

 永禄二年(1559)八月、石見小笠原氏は毛利氏に服属。小笠原氏の家城だった温湯城には吉川元春が入ることになった。

筑前立花表

 永禄十二年(1569)十一月頃、賢宣は筑前立花表で討死した。賢宣の遺児・愛童には毛利輝元から太刀と銭千疋が遣わされている(「風土注進案20当島宰判」)。

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 同年十月の大内輝弘の乱をきっかけとして、毛利氏は九州からの撤退を決定しており、同月十五日、吉川元春小早川隆景乃美宗勝ら一部の籠城部隊を残して長門へと退却していた。賢宣討死はそんな中での出来事だった。

 同年十二月二十八日、毛利方は立花城を豊後大友氏に開け渡して九州から撤退する。永禄十三年(1570)二月、毛利元就は「江良愛童被官」の中山宣直について「立花要害籠城辛労之段祝着候」と述べており、賢宣死後もその家臣が立花城で豊後大友氏と戦っていたことが分かる。

参考文献

  • 鹿野町誌編纂委員会 編 『鹿野町誌』 1991
  • 和田秀作「戦国時代の江良氏について〜毛利氏との関係を注進に〜」(『令和4年度山口県文書館オンライン歴史講座②』 2022)
  • 河合正治 『安芸毛利一族』 吉川弘文館 2014
  • 廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988
  • 廿日市町 編『廿日市町史 資料編Ⅰ』 1979
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第二巻 1968
  • 川本町教育委員会 編 『中世川本・石見小笠原氏関係史料集』 川本町・川本町教育委員会 2021
  • 岡部忠夫 編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983 

鹿野町の江良屋敷跡南東土塁と弾正糸桜

須々万沼城跡の遠景

*1:開戦前、小早川隆景は「鉄放之ために」鉛の調達を行っている(「萩藩閥閲録」巻134)。毛利氏で鉄炮が使用された早い例とされる。

*2:江良氏の本拠地。同地の龍雲寺は江良屋敷跡と伝えられている。