戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

廿日市 はつかいち

 広島湾の西岸の港町。周防から安芸にいたいる山間部と沿岸部のルートが合流する陸路の要衝に位置する。厳島神主家の居城・桜尾城が北東部にあり、その城下町的性格もあった。安芸国西部の中心的物資集散地として発展した。

厳島の対岸

 廿日市とその対岸の厳島とは、「蛤船」など日常的な交易ルートを持っていた(『棚守房顕覚書』)。瀬戸内海航路の要港として、同航路の各地とつながる厳島と内陸との流通ルートを持つ廿日市とは相互補完の関係にあった。

町場の発展

 少なくとも15世紀前半から、廿日市は東町・西町に分化して常設の市場町を形成していた。町では問屋・土倉を営む卸売商人が活躍し、紙座や塩座の存在も確認できる。

 また天文年間、安芸国西部の山間部に位置する厳島社領佐西郡山里四郷の刀禰中は、山里四郷で切り出した材木を廿日市で売却。その代価を、年貢銭として社家に納めている。廿日市が年貢の換貨市場として、周辺地域で重要な役割を果たしていたことがうかがえる。 

材木の集散地

 天文十五年(1546)には厳島神社大鳥居建立のため「備芸両国」の用材が廿日市に集められた。永禄四年(1561)の史料から「備中屋」の存在が確認されることから、後背の山間部のみならず、かなり広範な地域の用材集散地となっていることがわかる。

 廿日市厳島社造営に関わって「惣番匠衆」や鋳物師、「鉄屋」ら多くの職人が居住していた。集積される原料を加工しての日常製品の製造拠点も担っていたと思われる。

関連人物

参考文献

  • 鈴木敦子「地域市場としての厳島門前町と流通」(『日本中世社会の流通構造』) 校倉書房 2000

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極楽寺から眺めた現在の廿日市の町。

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廿日市天神地区の山陽道沿い。

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廿日市町屋跡。発掘調査により遺構が確認されている。

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廿日市本陣跡。寛永期(1624~43)に設けられ、 中世より鋳物師として活躍した山田家によって代々経営された。

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津和野藩御船屋敷。元和六年(1620)に津和野藩が広島藩より廿日市市桜尾城西側に土地を借り「船着ノ蔵屋敷」として始まった。その後寛永元年(1736)に「御船屋敷」として整備された。江戸時代の津和野藩では、石州和紙の交易や参勤交代の拠点として大変重要な施設となった。

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桜尾城跡の桂公園。

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栴檀地蔵堂脇にある五輪塔の残欠。JR廿日市駅の裏側の少し西より、山手ローンテニスクラブのすぐ脇。

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桜尾城主の菩提寺となった洞雲寺。

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戦国期の厳島神主・友田興藤の墓と伝わる宝篋印塔。「興藤」の名が刻まれている。

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洞雲寺の石塔。

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洞雲寺に残る桂元澄夫妻の墓といわれる宝篋印塔。

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洞雲寺に残る穂井田元清の墓といわれる宝篋印塔。

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永禄年間に再興された極楽寺本堂。

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速谷神社の社殿。