戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

2021-05-16から1日間の記事一覧

能美 貞勝 のうみ さだかつ

大内家臣。官途名は豊後守。周防国柳井に所領があった。安芸国能美島(現在の広島県江田島市)を本貫とする能美氏の庶流か。

能美 和泉守 のうみ いずみのかみ

大内武治家臣。安芸国能美島(現在の広島県江田島市)を本貫とする能美氏の庶流か。子に藤右衛門尉。

能美 房次 のうみ ふさつぐ

大内氏被官。万菊丸の父。仲次の子か。実名の「房」は大内氏重臣・陶興房または陶隆房からの偏諱とみられる。後に世次と改名した。防芸引分で大内方に付き、毛利氏に敗れた。

能美 仲次 のうみ なかつぐ

大内氏被官。能美島に本拠を持つ警固衆。仮名は四郎。官途名は縫殿允。房次の父か。大永年間の安芸争乱では、大内方警固衆として活躍。後に豊後遠征でも功績を挙げた。

海越 土佐守 かいごし とさのかみ

安芸国倉橋島海越(現在の広島県呉市倉橋町海越地区)の武士。

桂浜神社 かつらはま じんじゃ

倉橋島本浦・桂浜の北側の丘陵に鎮座する八幡社。

多賀谷 頼定 たがや よりさだ

倉橋多賀谷氏の一族。右馬助。実名の「頼」は、当主の多賀谷興頼からの偏諱か。

多賀谷 実時 たがや さねとき

倉橋多賀谷氏の一族。民部丞。文明十二年(1480)六月二日に再興された桂浜神社(倉橋本浦)のおよび尾立八剱神社の棟札に、その名がみえる。

多賀谷 興頼 たがや おきより

倉橋多賀谷氏の当主。兵部少輔。興基の父。倉橋の春日神社の棟札によると、天文二年(1533)に多賀谷興頼が同社本殿を造立したとされる。

多賀谷 興重 たがや おきしげ

倉橋多賀谷氏の当主。興頼の父。

多賀谷 弘重 たがや ひろしげ

倉橋多賀谷氏の当主。官途名は筑前守か。文明十二年(1480)六月二日の紀年をもつ桂浜神社の棟札にその名がみえる。

檜垣 肥前守 ひがき ひぜんのかみ

呉衆・檜垣氏の当主またはその一族。現在の呉市阿賀にあった龍王山城の城主として、「檜垣肥前」の名が伝えられている(『芸藩通誌』)。

警固屋 忠秀 けごや ただひで

安芸国安南郡警固屋を本拠とした警固屋氏の当主((当主の一族の可能性もある))。掃部助。文明十年(1478)十月十三日、大内政弘から筑前国穂波郡と嘉摩郡に所領を得た(『正任記』)。

山本 賢勝 やまもと かたかつ

呉衆・山本氏の当主。仮名は四郎。官途名は左近将監。山本房勝の子。実名の「賢」は、陶晴賢からの偏諱か。呉衆を率いて毛利氏と戦った。

山本 房勝 やまもと ふさかつ

呉衆・山本氏の当主。官途名は弾正忠、後に玄蕃允、甲斐守。賢勝の父。実名の「房」は、結びつきの強い大内氏重臣・陶興房からの偏諱とみられる。