戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

海越 土佐守 かいごし とさのかみ

 安芸国倉橋島海越(現在の広島県呉市倉橋町海越地区)の武士。

出雲国で討死

 呉市倉橋町には、海越土佐守の墓と伝えられる宝篋印塔があり、型から室町期のものと考えられている。文化年間(1804~1818)に作成された『文化度国郡志』には、この海越土佐守の墓について記載があり、「此の人出雲国合戦にて討ち死に、骨帰り此の地に葬るの由、古老申し伝え」とある。

 古老の話が事実であれば、海越土佐守は天文十一年(1542)の大内義隆の出雲遠征に従軍し、その際に討死したとも考えられる。大内氏の出雲遠征には、白井房胤など安芸国沿岸部の武士も動員されていることが確認できる。

海賊のむら

 海越土佐守が拠った海越は、往時は海賊のむらであったとの口碑がある。集落の北に、かつてちょうど船を隠せるような窪んだ地形の場所がある。そこに海賊が船を隠しておき、夜になると沖に出て行っていたという。海越土佐守は、海越の海賊を率いる立場の人物であった可能性が高い。

 また海越の西には大内氏に属した海賊衆・倉橋多賀谷氏の本拠地・倉橋本浦がある。もとより海越土佐守と倉橋多賀谷氏の関係は不明だが、ともに大内氏に属す警固衆であったと思われる。

参考文献

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海越土佐守古墓群。 二基の宝篋印塔といくつかの五輪塔群からなる。海越土佐守のものと伝えられている。

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海越土佐守古墓群の宝篋印塔。この古墓群は岩の上に建てられている。

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浅間社から眺めた海越の町並み。