戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

飛船小早(対馬) ひせん こはや

対馬宗氏が朝鮮への緊急連絡の際に用いた船。小早に分類される櫓漕ぎの帆船であり、風待ちをすることなく、海峡を渡って朝鮮半島へ渡航することができた。「おしふね」や「渡口の船」とも呼ばれたとみられる。

ブルネイ Brunei

ボルネオ島(カリマンタン島)北西部の港市。南シナ海に面した天然の良港に恵まれ、高価な竜脳を代表とするボルネオ島産物の積出港として知られた。ルソン島やモルッカ(マルク)諸島とマラッカを結びつける中継港としても栄えた。

ペシュト Pest

ハンガリー中央部のドナウ川東岸の都市。13世紀に作られた対岸の新都市「ブダ」と並立し、ハンガリー王国の主要都市の一つとして存在した。19世紀、北方の都市オーブダおよびドナウ川対岸の都市ブダと合併し、「ブダペシュト(ブダペスト)」となった。

焼酎(薩摩) しょうちゅう

戦国期、薩摩国には米を原料とする焼酎(焼酒・蒸留酒)が存在していた。16世紀に薩摩に滞在したポルトガル人の報告資料にみえる。薩摩国は焼酎を作っていた中国や琉球と交流があり、そこから生産技術が移入された可能性がある。

江良 重信 えら しげのぶ

陶氏被官。官途名は丹後守。陶弘房とその子弘護に仕えた。応仁文明の乱では、在国して所領支配を担当した。大内教幸(道頓)が大内政弘に反乱を起こすと、弘護による石見益田氏との交渉に関わった。

矢野 やの

広島湾に注ぐ矢野川の河口部に形成された港町。室町・戦国期、安芸の有力国人である野間氏の本拠地となった。同氏の警固衆は矢野を拠点としており、番匠や鍛治も住んでいたとみられる。

オーブダ Óbuda

ハンガリー中央部のドナウ川西岸の都市。ローマ帝国時代、この都市は「ブダ」と呼ばれ、下パンノニアの中心地として栄えた。中世、ハンガリー王国の中心の一つとなったが、13世紀にモンゴル軍に破壊された。その後、国王ベーラ4世によって「ブダ」南方の…

柿並 房友 かきなみ ふさとも

陶氏被官。陶隆房(晴賢)に仕えた。官途名は市佑、のちに佐渡守か。天文年間に陶氏の奉行人や東福寺領得地保の代官を務めている。厳島合戦で陶晴賢の身代わりとなって討死した柿並佐渡入道と同一人物の可能性がある。

柿並 四郎三郎 かきなみ しろうさぶろう

大内氏被官。天文三年(1534)の豊後薄野浦で警固衆として戦った。江戸期編纂の「譜録」は、柿並氏を大内教弘の子で長門国阿武郡柿並谷に拠った弘慶に始まるとする。なお「譜録」では、天文年間に隆幸、隆正の名がみえるが、史料上での確認はできない。

江良 神六 えら じんろく

陶氏被官。深野房重の孫で、養子として江良氏に入った。厳島合戦後、祖父の功績により毛利氏に仕えた。毛利家中では赤川元保が後ろ盾となったが、毛利隆元からの評価は辛かった。

江良 愛童 えら あいどう

毛利家臣。江良賢宣の子。愛童は幼名で実名は不明。父の討死後、幼くして跡を継いだ。天正年間にみえる毛利家臣・江良弾正忠と同一人物と考えられている。白井晴胤に嫁いだ姉妹がいる。

江良 賢宣 えら かたのぶ

陶氏被官。官途名は弾正忠。陶晴賢に仕えて廿日市支配を担当。毛利氏の周防侵攻に際しては、都濃郡須々万沼城で頑強に抵抗し、降伏後は毛利氏の防長経略に協力して活躍した。少なくとも二人の子がおり、一人は嫡男の愛童(実名不明)、もう一人は息女で白井…

新里 隆溢 にいざと たかみつ

大内家臣。厳島神領衆。官途名は若狭守。新里若狭守の子か。大内氏の赤間関支配を担い、後に安芸国佐西郡支配に関与した。

江良 藤兵衛尉 えら とうひょうえのじょう

陶氏被官。陶興房に仕えた。永正八年(1511)八月の船岡山合戦で活躍し、周防国都濃郡須々万に所領を得た。益田氏への使者も務めていることから、興房の側近であったと考えられる。

江良 主水正 えら もんどのじょう

陶氏被官。弘治二年(1556)四月、須々万沼城の戦いで討死した。実名は不明だが、天保四年(1833)に正司考祺が著した『豹皮録』には「江良主水隆綱」とみえる。

江良 昌泰 えら まさやす

陶氏被官。官途名は但馬守。陶興房の嫡子・興昌の偏諱を受けたとみられる。興昌死後は、興房の跡を継いだ隆房に仕え、奉行人として安芸国や周防国の支配に関わった。

南蛮酒 なんばんしゅ

南蛮(東南アジア)で製造された酒。琉球王国はシャム王国やマラッカ王国との貿易の中で、椰子などを原料とする酒を積極的に輸入していた。輸入された南蛮酒の一部は朝鮮や日本にも再輸出されていったとみられる。

琉球焼酒 りゅうきゅうしょうしゅ

琉球で製造された蒸留酒。1713年(正徳三年)成立の『琉球国由来記』では「米・粟・稷・麦を以って作る」とする。16世紀後半以降、琉球から薩摩島津氏への進上品にみえるようになる。島津氏はこれを「アワモリ」と称して徳川将軍家などへの贈答品とし…

渡邊 宗覚 わたなべ そうかく

豊後大友氏に仕えた石火矢技術者。仮名は三郎太郎。子に三郎右衛門、茂右衛門。主家滅亡後、徳川家康に召し出され、石火矢の鋳造を行った。

豊後筒 ぶんごづつ

豊後国で製造された鉄炮。豊後国は刀剣の生産地としても知られ、鉄炮製造のための技術的・資源的な素地に優れていた。豊後大友氏は、永禄年間には将軍足利義輝から鉄炮複製を依頼されており、豊後での鉄炮製造がよく知られていたことがうかがえる。

石火矢(豊後) いしびや

戦国期の豊後国では石火矢が製造されていた。豊後を領国とする大友氏は、貿易を通じて倭寇やイエズス会(ポルトガル)勢力から石火矢技術を得たとみられる。大友氏滅亡後、その人材と技術は徳川家をはじめ各大名家に流出した。

大砲(オランダ) たいほう

オランダでは16世紀半ば以降、大砲への需要が急速に高まった。17世紀に入るとイギリスやドイツ、スウェーデン等から大砲を輸入する一方、自国でも鋳鉄砲および青銅砲の生産を開始。材料の中には、日本から輸入した銅があったともいわれる。

大砲(イギリス) たいほう

イギリスの大砲製造は15世紀末頃から始まり、国内の豊かな鉄鉱石資源を活かして鋳鉄砲の開発が進められた。その結果、16世紀半ば以降、ヨーロッパ各国に輸出するまでに大砲産業は成長する。17世紀初頭には、徳川家康もイギリス製大砲を買い付けている。

大石火矢 おおいしびや

戦国期、後装式の大砲である仏郎機砲は石火矢と呼ばれたが、17世紀初頭、オランダから移入された前装式の大型砲は「大石火矢」と呼ばれた。その大きさは従来の石火矢(仏郎機砲)と隔絶するものだった。ただし大型の仏郎機砲を指して「大石火矢」とする場…

石火矢 いしびや

戦国期、日本で使用された大砲。日本では「石火矢」と呼ばれた。一方で史料上には「小筒」「大筒」あるいは「大鉄炮」があり、これらの違いについては不明。ヨーロッパから伝来した仏郎機砲とみられるが、中国的な火炮や大型の火縄銃を意味している可能性も…

倭板 わばん

日本から輸出された木材。日宋貿易では日本からの主要な輸出品であった。入宋僧が寺院造営用の木材として南宋に送っており、また棺材としても需要が高かった。

那智天満 なち てんま

紀伊国那智川河口部の港町。周辺の集落群とともに熊野那智山の門前町、外港として栄えた。多くの御師などが屋敷を構え、商人(金融業者を含む)や職人の存在も確認できる。

末次 すえつぐ

出雲国宍道湖東岸の港町。白潟の対岸にあり、亀田山(現在の城山)南方の砂州上に形成されていたと推測されている。永禄年間の毛利氏侵攻以前から町場が形成されていた。江戸初期、堀尾氏により建設された松江城下町に取り込まれた。

木鉄砲 きてつほう

砲身を木で拵えた木砲。木筒とも呼ばれた。16世紀中期の中国明朝では日本の「木銃」の模造が図られていた。江戸期の軍記物『南海治乱記』では、木鉄砲は伊予河野氏から始まるとする。

梨子羽 景運 なしわ かげゆき

沼田小早川氏庶子家・梨子羽氏の当主。仮名は又次郎。官途名は中務丞。平賀興貞の子で、同広相の弟。梨子羽康平の養子となって梨子羽氏の跡を継いだとみられる。小早川家中の上位にあり、出雲、伊予、備中などでの軍事活動が確認できる。