戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

村上 吉任 むらかみ よしとう

伊予河野氏被官・村上吉堅の嫡子。仮名は三郎。官途名は左京進。母は細川被官・児玉弥次郎の嫡女。弟に吉智、吉繁、妹に来嶋城主・村上五郎四郎(村上通康か)の母、村上大炊助室がいる(「大濱八幡神社文書」)。

村上 吉堅 むらかみ よしかた

伊予河野氏被官。官途名は左京進、後に常陸守。吉任、吉智、吉繁の父。娘が二人おり、長女は来嶋城主・村上五郎四郎(村上通康か)の母で、次女は村上大炊助に嫁いだとされる(「大濱八幡神社文書」)。中途城を拠点とする能島村上氏である可能性が指摘され…

村上 義益 むらかみ よします

能島村上氏の当主。 宮内少輔。村上義雅の嫡子。父の早世後、家督を従兄弟の村上武吉と争った。

末国 光氏 すえくに みつうじ

毛利家臣。官途名は左馬助、後に伊豆守。安芸国舟木(現在の安芸高田市高宮町船木)を知行地とする。吉田郡山城の戦いから防芸引分まで、毛利氏の主要な合戦で高名を挙げた。

岩見 源之丞 いわみ げんのじょう

安芸国岩山城の城主であったと伝わる人物。大内氏被官か。弟に三之丞がいたという。天文二十年(1551)ないし天文二十一年(1552)に、毛利氏に攻められ討死したとされる。

ビヤマグ(肥前) Beer mug

ビヤマグとは、ビールを飲むために作られた、円筒形で把手のついた器を指す。17世紀以前のヨーロッパでは、ビールを飲む際に陶器や金属器のビヤマグが使われていた。17世紀後半、肥前磁器によるビヤマグが日本からヨーロッパに輸出された。

チョコレートカップ(肥前) chocolate cup

17世紀後半、肥前ではオランダからの注文を受けて多くの磁器が生産され、海外に輸出された。その中にはチョコレートを飲むためのカップ、すなわちチョコレートカップがあった。

ムハンマド・シャー Muhanmad Shah

中国南宋の港湾都市・泉州にて1272年(文永九年)に没した人物。ホラズム出身の王族であったとされる。

鯨(長門) くじら

長門国の日本海沿岸には鯨の漂着が時々あり、寄鯨と呼ばれた。中世には、食用だけでなく鯨油も使用された。貴重な資源であり、権利をめぐって地域間の争論も発生した。

鯔(周防) ぼら

ボラ目・ボラ科に分類される魚の一種。中世、周防の特産品であり、船で畿内にも運ばれた。

泉 大官 せん たいかん

毛利氏に仕えた医師。朝鮮半島出身と推定される。出雲国に渡来して毛利元就に仕えたという。

杉 重忠 すぎ しげただ

大内家臣。仮名は新四郎。官途名は大蔵丞。父は杉長忠か。筑前国那珂西郷を知行した。

杉 長忠 すぎ ながただ

大内家臣。仮名は四郎三郎。官途名は大蔵丞。重忠、隆宗の父か。大内氏から筥崎宮領那珂西郷の知行を与えられた。筑前国内での社領をめぐる裁判に関わったことが、史料上で確認できる。

杉 隆宗 すぎ たかむね

大内家臣。官途名は大蔵丞。父は杉長忠か。博多近辺に知行を持ち、大内氏の筥崎宮への関与を担った。天文十六年度遣明船の副土官として中国に渡った。

與依地 よいち

道南の積丹半島の東の付け根・余市川河口部に形成された港町。現在の北海道余市郡余市町大川町。中世、蝦夷地(北海道)に進出した和人の最前線となった。

セタナイ せたない

北海道日本海沿岸部にあったアイヌの拠点。現在の北海道久遠郡せたな町の内。和人と西部アイヌの交易の中継地であったと考えられている。

遣明船 けんみん せん

室町・戦国期、日本から中国の明朝に派遣された船舶。チャーターされた国内商船が充てられた。天文十六年度船は、記録から船の全長や柱長が分かっている。

石見榑 いわみくれ

中世、石見の材木は「石見榑」とも呼ばれ、遠隔地にも流通していた。高津川および匹見川上流域といった益田の後背地には、これを可能にする豊富な森林資源があったことが推定されている。

柳井 郷直 やない さとなお

大内家臣。官途名は蔵人。天文十六年(1547)に大内氏が派遣した遣明使節の一員。この時の記録『大明譜』の作成として知られる。

樟脳(中国) しょうのう

中国で生産された樟脳。樟(クスノキ)を加工して作られた。東南アジアで産する竜脳の代用品であり、殺虫剤や火傷の際の鎮痛剤として用いられた(『本草品梨精要』)。中国では12世紀には製造が始まっていたとみられる。

樟脳(日本) しょうのう

日本で生産された樟脳。樟(クスノキ)を加工して作られた。安価な竜脳と位置付けられ、殺虫剤や火傷の際の鎮痛剤として用いられたとみられる(『本草品梨精要』)。特産地は九州地方、特に薩摩国。17世紀以降、オランダによって海外に輸出された。

温科 種重 ぬくしな たねしげ

毛利氏被官。筑前宗像氏にも属した。官途名は吉左衛門尉。弟に波賀多親秀がいる。12端帆の大型船を複数所有し、筑前から山陰にかけての日本海で海上活動を行った。

温科 盛長 ぬくしな もりなが

大内家臣。仮名は弥四郎。官途名は弥左衛門尉。宗像社大宮司・宗像正氏の与力となり、筑前立花山城攻めなど大内氏の北九州経略で活躍した。

宮原銀 みやはるぎん

戦国期、肥後国宮原で発見された鉱石。発見当初は、銀鉱石と鑑定されたが、以後の史料には見えなくなる。

小幡 興行 おばた おきゆき

安芸国佐西郡石道(広島市佐伯区石内)を本拠とする国人。官途名は民部少輔。実名の「興」は、大内義興の偏諱とみられる。大永三年(1523)、安芸武田氏によって自害に追い込まれた。

浦添 うらそえ

琉球中山王国の王都。沖縄本島の南部、現在の沖縄県浦添市に位置する浦添グスクとその城下からなる。その語源は「うらおそい(浦襲)」で、浦々を支配する所の意という。

能美 左馬允 のうみ さまのじょう

安芸国能美島の土豪。防芸引分では、毛利氏に協力して能美島の調略を行った。後に能美島を支配した来島村上氏に仕えたか。行動の詳細は不明ながら、来島村上氏が毛利氏から離反した際、関係者の話題にあがっている。

能美 右近助 のうみ うこんのすけ

来島村上家臣。幼名は千壽丸。仮名は四郎。官途名は右近助。安芸国能美島(現在の江田島市能美島)の出身か。来島村上通康と、その子通総に仕えた。

前伯耆守 通定 さきのほうきのかみ みちさだ

伊予国守護・河野氏の被官。在京中の当主と接触する立場にあった。一方で京都の東寺からは海賊と認識されており、東寺領弓削嶋荘の年貢徴収を請け負った。後の海賊衆・来島村上氏に連なる人物ともされる。

土倉 冬平 はくら ふゆひら

大崎西庄(大崎上島町のうち木江・沖浦・明石)の地頭。応永三十五年(1428)四月、御串山八幡宮(大崎上島町明石)の社殿造立に関わった。安芸国人・沼田小早川氏の諸氏家である土倉氏の当主か。