毛利氏の御用絵師。本名は原治兵衛直治。肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主・原豊後守直家の次男。子に狩野次兵衛(雲谷等益)。
豊前小倉細川家の家臣。宇佐郡の御郡奉行をつとめた上田忠左衛門の弟。当主細川忠利によって召し抱えられた。細川家中では葡萄酒やアヘンの製造を担う一方で、医師としての役割も期待されていた。
江戸初期、豊前小倉の細川家では葡萄酒が製造されていた。材料には山ぶどうの一種であるエビヅルが用いられたとみられる。当時、葡萄酒は薬酒として重宝されており、細川家でも葡萄酒製造を重要視していた。一方で葡萄酒はキリシタンと強く関連付けられる飲…
初夏に実を付けるケシの未熟な果実から出る乳液を乾燥させてつくった茶褐色の粉末。鎮痛、鎮咳、催眠などの効能があった。江戸初期、豊前小倉の細川家ではアヘンの製造が行われていた。
ペルシャ(イラン)発祥の菓子。アラビア語に入りファールーザジュと呼ばれた。でんぷんや豆粉に蜜や砂糖を加えに詰めたもの。冷まして大皿に盛り酥脂(バター類)をかけて食べられた。中国にも伝播し「八耳搭」と呼ばれた。
肉と小麦粒を煮込んだ粥。中世のイスラーム世界において宮廷の宴会料理として料理書にみえる。またスーク(市場)でも常設店での出来合い料理として提供されており、都市民のごちそうとして親しまれた。元朝時代の中国にも伝播している。
マグリブ地域で作られた粒状のパスタ。マグリブにはクスクス以外にもいくつかの種類のパスタがあったが、クスクスが最もよく食べられたパスタであったと推定されている。13世紀には東方のマシュリク地域にも伝播した。
細長いパスタ。地域や形状によっては、リシュタとも呼ばれた。10世紀から16世紀にわたってマシュリク、マグリブの文献に記載がある。12世紀にはシチリア島産のイトリヤがイタリア半島や中東各地に輸出されており、菓子や煮込み料理に使用された。
四角形や円形に切った餃子の皮のような小麦麺。あるいはそれを用いた料理を指す。元代の中国では「禿禿麻食」あるいは「禿禿麻失」と表記された。茹でたトゥトゥマージュに、ニンニクとミント入りヨーグルトをかけた料理などが知られる。
メトロポリタン美術館に所蔵される中世大和絵屏風。竹をテーマとし、ナズナや筍、雪などの景物を配して四季を表現している。制作年代は15世紀後半から16世紀前半とみられ、土佐派の絵師、特に土佐光信によって制作されたと推定されている。
メトロポリタン美術館に所蔵される金地の六曲一双屏風。右隻に『保元物語』、左隻に『平治物語』の内容を描きこむもので、「合戦図屏風の最優作」とも評価される。作者は不明。制作年代については慶長五年(1600)から慶長十五年(1615)とされるが…
甲斐源氏武田氏の祖である源義光(新羅三郎)から伝来したとされる鎧。安芸武田氏の重物。安芸武田氏滅亡後に大内氏の手に渡り、大内義隆によって厳島神社に寄進された。
安芸国の有力国人・毛利弘元が厳島神社に奉納した太刀。備前長船の刀工・国真の作。刀長106.6センチメートル。文献では野太刀と称される大太刀に該当する。
小早川隆景が厳島神社に寄進した太刀。「劔来太郎源国俊」の銘をもつ。刃長は74.6センチメートル。
鎌倉後期から南北朝初期の山城国の来派刀工。仮名は孫太郎。来国行の子とされ、生年は延応二年(1240)頃に比定される。長命であり、少なくとも81歳頃まで作刀を続けていることが確認できる。
イスパニョーラ島の南岸、オサマ川河口部に形成された植民都市。クリストバル・コロン(コロンブス)の次弟バルトレメオ・コロンが建設した拠点ヌエヴァ・イザベラの壊滅後、新総督ニコラス・デ・オヴァンドによって都市建設が開始された。
後古典期後期(1200年~16世紀)におけるカクチケル・マヤ人の要塞都市。現在のグアテマラ共和国チマルテナンゴ県北東端のミシュコ・ビエホ遺跡がその跡地。カクチケル・マヤ語の遺跡名は「チュワ・ニマ・アバフ」であり、「大きな石の前」を意味する。
後古典期後期(1200年~16世紀)のマム・マヤ人の主都。グアテマラ共和国ウェウェテナンゴ県に位置するサクレウ遺跡がその跡地とされる。遺跡名はマム・マヤ語で「白い土地」を意味する。
後古典期後期(1200年~16世紀)のカクチケル・マヤ人の主要都市。現在のグアテマラ共和国チマルテナンゴ県にあるイシムチェ遺跡がその跡地。メキシコ中央部のナワトル語で「クアウテマラン」の名称で呼ばれた。この「クアウテマラン」がスペイン語の…
後古典期後期に高地マヤで強勢となったキチェ・マヤ人の主都。現在のグアテマラ共和国キチェ県に位置するクマルカフ遺跡がその跡地とされる。遺跡名の「クマルカフ」はキチェ・マヤ語で「古い葦の場所」を意味し、別名のウタトランは、ナワトル語で「豊富な…
メキシコ、ユカタン半島東部(キンタナロー州)のカリブ海沿岸にあったマヤ都市。1200年頃から16世紀のスペイン人征服期まで交易港として栄えた。
メキシコ、ユカタン半島北部(ユカタン州)にあったマヤ都市。マヤの後古典期前期にあたる1150年(久安六年)ごろに勃興した。後古典期後期(1200~1539)におけるマヤ低地北部最大の都市であり、ユカタン半島北部の広範な地方に及ぶ政治同盟の…
安芸国倉橋島の最南端の港町。かつては島であった高見山との間に形成された陸繋砂州上に作られた。芸予海峡のほぼ中間に位置し、16世紀後半頃から活発化しはじめた沖乗り航路の潮待ちの停泊地として利用されるようになったとみられる。
美濃焼の一種。長石を釉薬とした白いやきもの。慶長五年(1600)までには生産が始まっていたとみられる。器種は大きく分けて、白磁や染付といった中国陶磁器を意識した丸皿などの量産品と、茶碗・鉢・水指などの茶陶製品がある。初めて筆による絵付けが…
美濃焼の一種。黄瀬戸と同様、瀬戸の黒色の茶碗という意味からその名で呼ばれる。器種はほぼ茶碗に限定されている。美濃国の東濃地域(可児、土岐、恵那の3郡にまたがる地域)における大窯で、天正年間末期頃から17世紀初頭にかけて黄瀬戸、志野などとと…
美濃焼の一種。天正末年頃から慶長十年(1605)頃まで生産された。名称は「瀬戸より来たる黄色のやきもの」という意味。当初の黄瀬戸は中国の青磁をモデルとしたとみられるが、後に華南三彩の影響を受けたといわれる。
美濃焼の一種。慶長十年(1605)頃から元和年間頃まで生産された。多様な色彩やモチーフ、器形が特徴。その名は、同時代の茶人古田織部助重然に由来するとされるが、具体的な関係はよく分かっていない。
中世、独立した島嶼であった児島(現・児島半島)の南西端に位置した港町。瀬戸内海の喉首を占める地勢上、瀬戸内海航路の重要な寄港地として、また水運の拠点としても栄えた。
備前国の香登荘、伊部周辺で生産された無釉の陶器。壺、擂鉢、大甕の三器種を中心に生産され、西日本を中心に貯蔵用や調理用の生活雑器として広く使用された。16世紀ごろから茶陶としても用いられるようになった。
マヤ文明が栄えたメソアメリカ南東部で生産されたトウモロコシ。トウモロコシはメソアメリカに野生していたテオシンテを起源とするとされ、マヤでは先古典期前期(前1800~前1000)頃から栽培が始まったとみられている。