戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

イトリヤ Itriya

 細長いパスタ。地域や形状によっては、リシュタとも呼ばれた。10世紀から16世紀にわたってマシュリク*1マグリブ*2の文献に記載がある*3。12世紀にはシチリア島産のイトリヤがイタリア半島や中東各地に輸出されており、菓子や煮込み料理に使用された。

イスラームのパスタ

 10世紀、ファーティマ朝初代カリフのアル・マフディーに仕えた医学者アル・イスラ―イーリーは著作『栄養の書』の中でイトリヤのについて以下のように記述している。

イトリヤは、ファティールの練り粉で作る。ところでファティールの練り粉というのは、イーストも塩も入れず、しっかり発酵しないパンである。(中略)調理されたなら、水から湿の性質を得る。

 当時のイトリヤは、ファティール(イーストを入れないパン)の生地で作られたものであり、さらに水で調理加熱されるもの、と定義されていたことが分かる。

 また16世紀の医学者アル・アンターキーは『薬撰録』の中でイトリヤを含むパスタの形について言及している。

イトリヤ:これを、より薄く(延ばし)て、切るか板の上で手によって細長くした場合リシュタである。乾燥後砕く。手によって大麦の粒ほどにしたら、それはシャイリーヤである。円形に切った場合、ファーリス地域ではブグラ、トルコではトゥトゥマージュという。また(トゥトゥマージュ)に挽肉を詰めたものは、シャシャブルクという。

 イトリヤとリシュタは、細長い形状をしたパスタであった。粒状のシャイリーヤ、円形で切ったトゥトゥマージュというパスタもあったことがわかる。

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 このほか、マグリブの文献に記載されたパスタもあり、クスクスやフィダーシュなどとよばれた。これらは「蟻の頭の形」「小麦の形」と形容される粒状のパスタであったとされる。

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イトリヤとリシュタ

 11世紀のホラズム出身の学者アル・ビールーニーは、イトリヤについて『薬草書』で下記のように説明する。

イトリヤ:これはギリシア語とシリア語では"iṭrîn"である。ペルシア語では"ahâh afrûsh"である。すなわち"khabîs"(蜂蜜の飴菓子)の王様である。

 現代の辞書類によれば古典ギリシア語の"itrion"は香辛料を入れたパンケーキを意味し、7世紀まで記録資料のあるパレスチナユダヤ教徒アラム語では、"’iṭrî"は細長いパスタを意味するという。

 以上のことから、イトリヤという言葉はすでにイスラム以前からあったがうかがえる。そしてイトリヤは時代差や地域差があったとしても、パンあるいはパスタのような食べ物を指していたとの推定がなされている。

 13世紀の学者イブン・アル・バイタールの『薬草集成』に引用されたイブン・シーナーの言説によれば、10世紀ごろの中央アジアからファールス地域(イラン南部)にかけては、イトリヤはリシュタと呼ばれたとされる。リシュタはペルシア語では「線」「針」を意味する。

 1226年(嘉禄二年)のアル・バクダーディーの著作には、リシュタについて「粉を練り延べ、細紐のように細長く、そして指四本分の長さに切ったもの」とあり、現在のパスタの長さ程度と考えられている。細長いパスタであるイトリヤとリシュタは、調理時は細かく砕いて用いられた。

イトリヤの料理

 前述の16世紀の医学者アル・アンターキーが述べたように、細長いパスタであるイトリヤとリシュタは調理時は細かく砕いて用いられた。

 アル・ビール―二―は、先人の言説を引用し、イトリヤを「ファティール(イーストを入れないパン)からつくられて蜂蜜をかけるもの」と説明している。10世紀に編纂されたアッバース朝宮廷料理書にも、米や豆の代用としてスープに、あるいは米の代わりにプティング菓子に砕いて入れられていたことがみえる。

 13世紀からはイラク、シリア、エジプト、アンダルス(イベリア半島)各都市でアラビア語料理書が編纂されるようになった。それらにはイトリヤ料理とリシュタ料理のレシピがある。最も後世に影響を与えたとされる13世紀の料理書『友人との絆』には、以下のようなリシュタ料理の作り方が紹介されている。

(茹でてスープをとり終えた)肉にその肉の脂を塗りつけ、その肉(を砕いたもの)に米とひよこ豆を加えてカバーブ(肉ダンゴ)を作る。少量の肉のスープと大量の羊脂を用意し、(肉の入った鍋に)それらとリシュタを入れる。
油がブツブツといい、スープがなくなるまでじっくり煮る。ソーセージのように盛る。ところで肉団子のなかに卵を入れたいなら、卵を肉でつつみ、大きな肉団子にする。

 料理書のリシュタ料理は、大量の脂をいれた煮込みうどんのようなものであったことがうかがえる。

 肉入りスープで煮込んだ料理以外の食べ方もあった。1602年(慶長七年)、エジプトの治療館の医師長は、「(イトリヤは)水で調理されて、アーモンド油やゴマ油にマスチック(ウルシ科のマスチック植物の樹脂で独特の甘い風味をもつ)とともに食べるもの」と言及している。

生産と流通

 イトリヤの生産と流通について、12世紀の地理学者アル・イドリーシーは以下のように記録している。

シチリア島西部には、タルビーアという街区がある。ところでそこは、すばらしい大きな小川に面している。そこには水が流れ、多くの水車製粉所がその流れの上にある。またその水車の横には広場と大きな小屋がある。そこでイトリヤが作られる。
イトリヤは、カラブリア地域(イタリア半島の南西端)のすべての地域や、それ以外のムスリムの地とキリスト教徒の地へ運ばれる。たくさんの船荷として運ばれる。

 12世紀にはすでにイトリヤは、シチリア島の工場で生産されており、そこからイタリア半島や中東の各地域に輸出されていたことが分かる。

宮廷料理と病人食

 15世紀のマムルーク朝宮廷行事を詳述した『マムルーク朝の地理政治摘要』には、宴会料理55種のひとつとしてリシュタ料理がみえる。これは先述の料理書に記載された脂入り煮込み料理と推定されている。

 またエジプトではリシュタは病人食として食べられていた。16世紀の医学者アル・アンターキーは以下のように述べている。

すべての(イトリヤ類)は消化が遅く胃に害なもの。ところでリシュタやシャイリーヤを、エジプトの人々は病気のためのムザッワラ料理として作っている。これらは(胃に)重いものであるから、よくないことである。

 ムザッワラ料理とは、直訳すると"だまし料理"であり、キリスト教徒が断食中に食べる、魚・卵・肉・動物性油脂を一切とらない精進料理を指した。この料理は、イスラーム世界では病人食として医学者によってとりいれられた。このためリシュタ類は、肉や脂を一切いれずに料理され、病人によって食べられていたと考えられている。

 なお前述の10世紀の医学者アル・イスラ―イーリーも、イトリヤを消化しにくい食品とみなしていた。一方で消化できればたいへん滋養に富み、熱による肺の痛みに効果があると考えていた(『栄養の書』)。

 このような考えのもと、医学者たちは消化を促す方策として、他食品との食べ合わせ方法と、イーストで発行させたパスタを作る方法を考え出した。当時、発酵させたパン類は消化しやすいと考えられていた為であるとされる。

 11世紀のアル・ビール―二―は「コショウとアーモンド油を混ぜれば、少しは消化しやすくなる」としており、イブン・シーナーは「肉をいれないイトリヤ料理の優れた点は、(胃に)軽いことである。」と述べている。

 イースト発酵のパスタに関しては、13世紀の医師イブン・アル・クフが「イトリヤのイーストとして最も良いものは小麦のイーストである。これは足の痛みをなくす。」と説明。14世紀のアル・クトゥビーは「(イトリヤの)最良のものは、塩をくわえ発酵したものである。」としている。

参考文献

  • 尾崎貴久子 「中世イスラーム世界のパスタ」(『オリエント』42 1999)

イタリアと北アフリカの一部の地図 ヤン・ルイケン 1692年
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

*1:エジプト以東の東アラブ地域を指す。

*2:エジプトより西の地域。北アフリカ沿岸地域。

*3:本草書や医学書においては、全てのパスタはイトリヤの項目にまとめられているという。このことからイトリヤは最も知られたパスタであったと考えられている。