戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ギー(イエメン) ghee

 ギーとはヒンディー語で、牛や羊、山羊の乳から作られるバターを熱して不純物を取り除き、冷ますことで得られる純度の高い油脂を指す。現代では清澄バター、澄ましバター、あるいは単に調理用バター、バター油脂とも呼ばれる。

サムンとギー

 14世紀初頭に没したアラビア語辞典編纂者イブン・マンズールは、サムン(samn)について「乳を澄ましたもの。また、バター(al-Zuni )を澄ましたもの。また、牛からとれるもの」と述べている。これはギーの特徴と類似しており、アラビア語文献におけるサムンはギーと大差ないものだったことが分かる。

イエメン・ラスール朝の宮廷料理

 13世紀のイエメン・ラスール朝宮廷への食材供給記録やアデン港課税品目録を含む行政文書集『知識の光(Nūr al-Maʿārif)』には、ラスール朝の宮廷料理76点が所収されている。このうちギーを使用した料理は6点にとどまる。「ギーあるいは動物性油脂」といった記述がみられ、両者の間に互換性があったことがうかがえる。

 ギーが用いられた料理の例として、「焼肉と切肉(al-shiwā wa al-sharāyiḥ)(原文ママ)」がある。そこでは、以下のように記されている。

焼肉用の羊50頭、切肉用の羊30頭、卵500個、サフラン3カフラ、ゴマ油20、チーズ40、コショウ2ラトル、キターラ5ラトル、ギー6ラトル、肉桂1ラトル、コリアンダー1.25、ハキーン2ザバディー、塩2ザバディー、レモン500個、シュクル500個、ロウのランタン1つ、大皿60

 上記は食材の購入に関する記録であり、具体的な調理法までは書かれていない。しかし、ギーを用いて焼かれた肉に様々な種類の香辛料がかけられて、宮廷の宴席に供されていたことは想像されるという*1

 他にも、小麦粉からつくられるパイ料理サンブーサク(sanbūsak)などがゴマ油を用いて調理される一方で、同じく小麦粉をもとにしたカァク(kaʿk)では、ギーが使われた。その材料としては、ギーに加えて黒キャラウェイウイキョウ、砂糖が記録されている。保存を考慮してか、スルタンが稼働中と滞在中とでギーの分量を変えるようにとの指示が見られる。

 なお、現代のイエメンのビントッスフン(bint al-ṣuḥn)と呼ばれるパイ料理の生地は、卵や塩、小麦粉、ドライイースト、ギー(引用元ではサムン)を混ぜ込むことでつくられる。さらに生地を焼くプレートの底や、重ねる生地と生地の間にも、ギーを塗っておくという。生地が焼き上がると、最後に蜂蜜をかけて食べる。

 ここでのギーの用いられ方は、北インドにおいて小麦からつくられるパラーター*2におけるそれと類似しているという。

ギーの薬効

 ギーには薬効が期待されていた可能性があるとされる。13世紀後半のラスール朝スルタン・ムザッファルは、薬に関する著書のなかで、ギーが毒をおさえたり、腫瘍に効いたり老廃物を分解したりする作用を持っていることを記録している。これはイエメンならではの記述というわけではなく、当時流布していたギーに関する一般的な薬学知識と考えられている*3

 同様の記述は、イスラーム預言者ムハンマドの言行をもとにした「預言者の医学」に関するイブン・カイイム*4の著書にもみられ、バター(al-zubd)と同じような薬効を持っているがより優れているとも記述されている。

 なおインドにおける古典医学アーユル・ヴェーダによれば、ギーは最も浄性が高いとされる食物であった。また力をつける最高の食べ物や薬、供儀の火点けとしても、ギーが用いられたという。

宮廷料理以外の用途

 ギーはスルタンのもとで食されるばかりではなく、監獄に囚われたラスール朝への反逆者たちへの支給品や、あるいは配下の者たちへの下賜品としても用いられた。この際は、羊やコショウ、米、卵などとともに支給されており、単なる食材のひとつとして扱われていたとみられる。

 またイエメン対岸の北東アフリカから奴隷を輸送する際には、道中の食料として奴隷一人ずつに肉とギーが用意された。

 その他、ヤシの木の枝でつくられる容器のなかには、ギーやゴマ油が塗られるものがあった。ラスール朝スルタンの厩舎にいるラクダのからだを強くするためにギーを定期的に嗅がせるということも行われていたという。

 これらのことから、イエメンにおけるギーは、高級品というよりは、むしろ一般の人々にも広く行き渡っていた商品であったと想定されている。

イエメンでのギー生産

 ギーはイエメン内部と、港湾都市アデンを経由したインド洋周縁部から供給されていたとみられる。13世紀の行政文書集『知識の光』によれば、イエメン内部のギーの供給元として、紅海沿岸部の都市ザビード*5やマフジャム、カドラーゥがみえ、南部山岳地域ではジャナドやミフラーフ・ジャァファルが見られる。

 上記の供給元は生産地というよりは、むしろ集散地であり、実際にはその後背地でギーが生産されていたと考えられている。

 13世紀末のラスール朝スルタン・アシュラフが著した1271年(文永八年)から1272年(文永九年)にかけての農業や天文の様子を記した農事暦には、現行の太陽暦に換算すればおよそ12月15日が「ギーがミフラーフ(・ジャァファル)に現れる最後(の日)」と書かれている。牛の出産時期や泌乳期により、ギーを入手できる時期が限られていたことがうかがえる。

 13世紀の南部山岳地域における課税時期に関する記録では、小麦やミレット、ソルガム、蜂蜜、ロウ、赤砂糖とともにギーが記録されており、その課税日(査定日か)はおよそ7月25日、そして支払日(実際の徴収日か)は11月19日とされていた。また、13世紀後半のラスール朝下の各地の徴税記録をまとめた別の史料でも、紅海沿岸部や南部山岳地域において、赤砂糖や羊、バナナ、茜、蜂蜜とともに、ギーが徴税対象となっていた。

 また14世紀前半から半ばの記録においてもギーは蜂蜜やラクダ、牛、羊、ナツメヤシの種苗とともに南部山岳地域に課税されている。一方で、14世紀後半の記録では小麦や大麦、干しブドウ、赤砂糖、蜂蜜、羊、ナツメヤシは徴収されていた形跡があるが、ギーについては見当たらないという。

 その理由は不明だが、13世紀から14世紀の間にギーがイエメンで広く生産されるようになり、重要性が低下していた可能性が指摘されている。

 なおイエメンの紅海沿岸部地域の都市マフジャムの価格記事によれば、1297年前後、ゴマ油10ラトル・マフジャミーが7.5ディーナールであったことに対し、ギー10ラトル・マフジャミーが6.2ディーナールとなっている。1ラトル・マフジャミーあたりの価格は、ゴマ油よりもギーの方が小さいことが分かる。

メッカへの輸出

 イエメンにおける生産量が大きかったためか、ギーは陸路メッカへ輸出されることがあった。12世紀後半にメッカを訪れたイベリア半島出身の旅行家イブン・ジュバイルは、イエメンからやって来るサルウ(al-Sarw)と呼ばれる人々が、黒や赤の干しブドウ、アーモンド、小麦、蜂蜜、果物に加えて、ギーをメッカへもたらしていたことを記録している。

 ギーはメッカにおいても日用品として売買されていたらしい。小麦や小麦粉、ナツメヤシ、肉などと同様にその価格に関する記録が諸史料に散見されるという。14世紀前半において、ギーは1ウーキーヤ(1.125キログラム)あたり4ディルハム程度であった。

 ギーはウーキーヤ以外にも、ラトルやマンなどの度量衡で計られていた。特に「ギーのマン(mann al-samn)」と呼ばれた重量単位は、液状の商品であるギーやオリーブオイル、ゴマ油、酢に対して用いられた。

エジプトからの輸入

 『知識の光』によれば、南部山岳地域の都市ドゥムルワにいたあるラスール家の王族の女性へ港湾都市アデンから送られた食材の中に、米やコショウ、クミン、シナモンなどと一緒に「エジプト・ギー(samn Miṣrī)」の名前が挙がっている。エジプトで生産された(あるいはエジプトで積出された)ギーが、紅海を南下してアデンに至り、そこからイエメンの王族のもとへ運び込まれていたことがうかがえる。

 その量は、通常は2ブハール+162ラトルであったが、この記録がとられた時には3ブハール+252ラトルに達したという。1ブハール=250~300ラトル、1ラトル=400グラムと仮定すると、3ブハール+252ラトルは、1,002~1,152ラトル=400.8~460.8キログラムとなる。

 エジプトのギーは、紅海で活動する商人によってアデンに運ばれたとみられる。エジプトの紅海沿岸部の港であるクサイルに拠点を置いたアブー・ムファッリジュ家は、13世紀前半頃、肥沃なナイル川周辺部で生産された小麦や米などの穀物類をメッカへ輸送していたほか、豆類や野菜類とともにバターやギーなどの油脂類も取り扱っていた。

 14世紀、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータも、紅海を南下する際に見かけたイエメンの人々の船が小麦粉やギーを積んでいたことを記している(『大旅行記』)。

アフリカからの輸入

 『知識の光』所収の13世紀のアデン港課税品目録のなかには、アフリカ沿岸のダフラク島やザイラゥ、モガディシオがギーの輸出元であったことを示唆する記事が見られるという。1330年(元徳二年)冬にザイラゥを訪れたイブン・バットゥータは、ザイラゥにラクダや羊、山羊が大量にいること、そしてそれらの油脂が有名であることを報告している(『大旅行記』)。

 ザイラゥの羊はバラ―ビル羊と呼ばれ、イエメンにも輸出されていた。ザイラゥからのギーは、牛の乳に加えて、こうしたバラ―ビル羊や山羊の乳から生産されたものであった可能性が指摘されている。

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 アフリカやエジプトからのギーの流れは、14世紀の状況を反映する史料にも見られる。フサイニーの『書記官提要』に含まれるアデン港課税品目録において、モガディシオの商船が奴隷やゴマ油とともにギーを運んで来ることが記されている。またエジプトから運ばれてくる商品にギーがあることも記録されている。

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インドからの輸入

 13世紀のアデン港課税品目録には、インドから輸出されたギーも見られるという。

 古くは紀元1世紀に著された『エリュートラ海案内記』において、ギーと同定される商品が、米や麦、綿布とともにインド北西部のクジャラート地方の内陸部から輸出され、ソマリアや南アラビアなどのインド洋西海域の諸港へもたらされている。復路では南アラビアの特産品である乳香が帰り荷として受け渡されていたことが、記録されている。

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 なお、アデン港課税品目録における課税額を見てみると、13世紀においても14世紀においても、単位当たりのギーとゴマ油は同額であるという。前述のようにイエメンのマフジャムにおける両者の価格もほとんど同じであることから、両者の商品価値がイエメンにおいてもアデン港においても同等であったことがうかがえる。

 一方でラスール朝の王族がゴマ油をアデンから取り寄せた形跡は見られないとされており、ギーと比較して海外のゴマ油への関心は薄かったことが想定されている。

参考文献

  • 馬場多聞 「中世のイエメンとギーとインド洋西海域」(『嗜好品文化研究』第6号 2021)

ギー from 写真AC

*1:なお「カフラ」や「ラトル」、「ザバディー」は容量単位あるいは重量単位。

*2:チャパティやロティと同じ大きさの平焼きパン。生地にギーを塗りながら何回も折りたたんでのばし、パイ生地のように仕上げる。

*3:ギーに関する記述は、古代ギリシアの医学者ガレノスやイブン・スィーナーを引いたイブン・アルバイタールのそれとほとんど同一であることから、このように考えられている。

*4:14世紀前半にダマスカスで活動したハンバル学派の学者。

*5:ザビードは、ギーに特化した供給元だったわけでなく、他にもザクロやゴマ油ナツメヤシ製や陶器の器を各地に送り出している。