東北アフリカに生息した羊。中世、ザイラゥなどの港から対岸のイエメンに輸出されていた。イエメンでは現地の羊より高額で取引されており、ラスール朝は下賜品としても用いた。
高価な羊
13世紀のイエメン・ラスール朝の行政文書集『知識の光』所収のアデン港課税品目録には、以下の記事が見られる。
バラービル羊(ghanam barābir)―マイトやマルガッワ、ザイラゥから。一頭につき1/4ディーナール。
東アフリカのアラビア海沿岸の港であるマイトやマルガッワ、ザイラゥ(ゼイラ)からバラービル羊が積み出され、アデン港で1/4ディーナールのウシュル税(十分の一税)が課せられていたことが分かる。これら地域一帯の特産品であったとみられるが、ヌビア*1のバラービル羊も見られたという。
アデン港に到着したバラービル羊は、政庁が王族であるラスール家用に良いものを選ぶまで、囲い地の中に入れられていた。『知識の光』によれば、宮廷用に購入される際には、バラービル羊は一頭あたり8ディーナールで取引された。イエメン産の羊が一頭あたり1から5ディーナールであったことを踏まえると、比較的高価な羊であったことがうかがえる。
下賜品
バラービル羊は日々の食事で消費されたとみられる。一方で、比較的高価であった為に、料理の食材としてよりもむしろ下賜品として用いられた可能性もあるという。
1280年(弘安三年)以前に行われたと思しき食材分配の記録には、様々な参列者の名前が記される。そこでは、イエメンで生産される羊や小麦粉の他に、対岸の東アフリカから輸入したバラービル羊が、多い者で150頭、少ない者で10頭、支給されていた。
また下賜とは別に、労働や奉仕を行う者に対して手当てが支給された。1264年(文永元年)のある月に作成されたとみられる手当ての内訳記録には、バラービル羊2頭、特別な肉100、バラービル雌羊2頭、鶏4羽などが記されている。
バットゥータの記録
1330年(元徳二年)、モロッコ出身の旅行家イブン・バットゥータは、9月末から10月初旬頃にメッカを離れてアデンを訪れた。アラビア海を横断してインドに渡ろうとしていたと推測されている。しかしアラビア海横断に不可欠な南西モンスーンの季節が終わっていたため、予定を変更して南方のキルワ王国に向かうこととした。
アデンを出航したバットゥータは、4日後に紅海対岸のザイラゥ(ゼイラ)に到着。当地の牧畜業について以下のように述べている(『大旅行記』)。
彼らの(所有する)家畜はラクダであるが、羊・山羊もあって、その動物性油脂については広く知られている
バットゥータの見たザイラゥの羊は、バラービル羊であったのかもしれない。また『知識の光』所収の13世紀のアデン港課税品目録には、東アフリカから動物性油脂(ギー)を輸入していたことを示唆する記事が見られるという。このためザイラゥから輸出された動物性油脂もバラービル羊や山羊の乳から生産された可能性が指摘されている。