戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

萩原 おぎはら

 石見銀山東方の宿場町。森林資源の豊富な石見国邑智郡や出雲国石見銀山を結ぶ道筋の要地にあった。銀山の最盛期は荻原千軒ともいわれる栄えた町場であったという。

荻原千軒

 荻原は石見銀山の灰吹銀輸送路における最初の宿場として知られた。江戸期、石見銀山の灰吹銀が大森から大坂御銀蔵に納められるとき、輸送の本陣が堂原(荻原の旧名)に置かれ、堂原は荻原千軒といわれるほど栄えたという(『石見八重葎』*1)。

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 また正徳五年(1715)、年貢の減免が認められた村々のリストである「村々定引ヶ之事」が作成されているが、その中に荻原村がある。土地条件の悪さを理由として減免が認められた例が多かったが、荻原村や西田村、久利村などの石見銀山周辺の村では、銀山の衰退による戸口の減少などを理由として、年貢の減免が許可された。

 同文書には、荻原村の往古の繁栄が以下のように記されている。

是ハ荻原村町屋敷六拾ヶ所、往古銀山繁昌之節ハ村々より銀山へ入候銀吹炭、荻原江取集商売仕并雲州より銀山へ買込申候米其外諸色之市場ニ而夥敷振候ニ付高盛之田石有之、

 石見銀山が栄えていた時期(17世紀前半ごろか)、銀生産に必要な銀吹炭*2に集荷されて銀山に搬入されていたとされる。また銀山の為に出雲国から購入された米などの物資も市場で取引されて、たいへん賑わっていたのだという。このために年貢の石盛が高く設定されていた。

明治初期の地引絵図からの復原

 明治初期の「荻原村地引絵図」によれば、忍原川右岸の段丘上に一筋の道が通り、その両側に屋敷名の附された字名が分布していたことが分かる。それらのほとんどは、奥行きに対して間口が狭い、町場に典型的な地割の特徴を示しているとされる。

 集落の西端部分には「口屋坂口」「口屋敷」など「口屋」の立地を示す字名がみられる。口屋とは銀山領内の諸商売・諸荷物に対する税の徴収や銀の抜け荷などの取り締まりを行う番所のことであり、元和五年(1619)までに作成されたとみられる「元和石見国絵図」にも、荻原村に口屋が描かれている。

 「荻原村地引絵図」では、道に沿って「紺屋敷」「米屋敷」「布屋敷」「鍛冶屋」などの品目名や職業名を冠した字名が付されおり、ここにはかつて商業機能があったことが推測されている。「新市」の地名もあり、周辺の村々からもたらされた銀吹炭、出雲から移入された米などの商品は、この新市で取引された可能性があるという。

 地名を冠した字名もみえる。「亀谷屋」は現在の大田市久利町市原の亀谷、「戸蔵屋」は大田市久利町久利の戸蔵、「宅の屋敷」は宅野浦大田市仁摩町宅野)に関りがあると考えられている。忍原川左岸にも、「佐摩屋敷」(大田市久利町佐摩)、「地頭所屋敷」(邑智郡美郷町地頭所)の記載がある。

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 忍原川左岸には字名「浄土寺屋敷」があり、浄土真宗の古刹である柏淵村の西原山浄土寺と関連するものとも考えられるという。同寺は、大家本郷(大田市大代町大家)や祖式村(大田市祖式町)など、中世末までの主要な町場に末寺を進出させている。

 また集落東方には「城山」などの字名があるが、これについては中世の城址であると伝えられている。しかしここに拠った土豪の名は知られていない。

参考文献

荻原地区の忍原川左岸の風景

陣屋の跡 明治前期の地籍図には「目代屋敷」とある

忍原川右岸の荻原の道

荻原の家並み

*1:文化十四年(1817)成立の石見国地理書

*2:石見銀山において銀吹炭は近世を通じて「吉舎炭」と称されていたという。これは吹炭が、備後国の吉舎地方で生産されたことを示していると考えられている。