戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

西田 にした

 石見銀山と銀山の外港温泉津を結ぶ街道の中継地点に位置する宿場町。現在の大田市温泉津町西田。銀山と温泉津の間の物資輸送の拠点として栄えた。また16世紀末の史料から、銀山や温泉津周辺で活動する人物が住んでいたことも分かっている。

西田の町

 天正三年(1575)、薩摩から上洛していた島津家久は山陰を経由して帰国の途に着く。六月二十四日、石見銀山に一泊した家久は、翌二十五日に出立し、「西田町」を通過して同日に「湯津」(温泉津)に到着している(「中書家久公卿上京日記」)。「西田町」の名称から、すでにこの頃には西田に町場が形成されていたことが分かる。

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 なお家久一行は、銀山から西田の間で、30名程の加治木(現在の鹿児島県姶良市加治木町)の衆とこの一団に同行していた肝付新介という人物とすれ違っている。彼らは家久一行とは逆に、西田を通過して石見銀山に向かっていたと推定される。前日の六月二十四日夜にも、銀山宿泊中の家久のもとに、加治木の早崎助十郎、久保田弥彦右衛門が酒を持って訪れている。当時、西田には薩摩国加治木の人をはじめ、多くの人々が往来していたことがうかがえる。

 現在の西田の「町」は、銀山方面から五老坂(降露坂)を降ってきた道が湯里川を渡る辺りよりはじまり、湯里川左岸の緩やかな坂道に沿って西方へと展開している。西田の「町」の部分の字名は、台帳上では、道を境として「左」「右」であるが、日常的には「上市」「中市」「下市」が通称として用いられてきたという。江戸期の地方史料にも、村内の一部の呼称として「町」「上市」「下市」の記載がみられる。

西田地域の支配

 「町」の南側の斜面付近に「殿居山(どいやま)」という地字がある。石見地域では、中世末の土豪や在地領主の所在地が「どい」(「殿居」や「土居」の字があてられる)の地字名で呼ばれる例がしばしばみられるという。

 中世、西田地域を拠点とした人物については、西田村八幡宮(現在の水上神社)の天文十七年(1548)八月十日付棟札に名前がみえる「西田甲斐守長識」が知られる。天文十年(1541)、この地域を支配していた大家氏が川本の小笠原氏に滅ぼされており、天文十七年当時の西田は小笠原氏の影響下にあったと考えられている。西田甲斐守長識の諱には、小笠原氏当主代々が名乗っている「長」の字が用いられていることから、長識は小笠原氏の一族であったとも推定されている。

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 その後、温泉三方(大家庄温泉郷を構成する飯原・湯里・西田)と称された地域は毛利氏直轄の支配地域となる。西田では、元亀三年(1572)二月に兵部太夫という人物が毛利輝元から「石州西田神主職」を安堵されている。

 また天正十七年(1589)頃の吉川家臣桂春房書状には「西田奉行衆」がみえる(「石見吉川家文書」)。この頃までに西田には毛利氏の奉行衆が置かれていたことがうかがえる。

石見銀山と物資輸送

 慶長二年(1597)十二月十日付「地銭・諸役銀付立写」という史料には、当時の西田に賦課された税が記されている(「五国証文」)。税の種類は、屋敷の間口を基準に賦課された地銭と、物資輸送に関連する税である馬役銀、酒税である酒屋役の三つがあった。

 この時に西田に賦課された税の総額は銀2貫152匁5分であったが、このうち馬役銀が銀1貫920目であり、全体の9割弱を馬役銀が占めている。また「但前々御定辻馬百廿疋分」とも記されており、西田の輸送に使用された伝馬の具体的な数量もうかがえる。

 西田を対象に賦課された馬役銀については、慶長五年(1600)の「子歳石見国銀山諸役銀請納書」*1にもみえる(「吉岡家文書」)。同史料の「西田ヨリ銀山迄駄賃役年中分」によれば、西田では駄賃役として一年で銀290枚を納めることになっていた。

 仮に銀1枚を43匁で計算すると、慶長二年の馬役銀は銀40枚程となる。慶長五年の駄賃役は銀290枚であり、わずか3年で7倍以上に増税されていることになる。

 この背景には、慶長二年に豊臣政権が朝鮮半島に再出兵した影響があるとされる。毛利氏では厳しい戦況の影響で大規模な増税を実施し、それ以前の銀納入額は年間5000枚であったのに対して、慶長年間には1年間に銀2~3万枚を納入させたという。

 なお前述の「子歳石見国銀山諸役銀請納書」および同年十一月の「石見銀山諸役未進付立之事」には、西田から銀山までの駄賃役の請人として、中祖淡路、伊藤又右衛門、中富三郎右衛門、薄井善教、高野信五左衛門の名がみえる。

 このうち井藤(伊藤)又右衛門、中富三郎右衛門、臼井(薄井)善教の三名は慶長二年(1597)の「地銭・諸役銀付立写」の宛名となっており、中祖淡路守も屋敷所有者としてその名が記載されている。

 特に中祖淡路守は銀山とその外港の温泉津を結んで運送業を営んだ人物であり、温泉津の龍沢寺の建立に際して資金を提供するほどの資力を有していたという。

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西田の住人と周辺地域との関係

 前述の慶長二年(1597)十二月十日付「地銭・諸役銀付立写」によれば、西田では酒税である酒屋役が賦課されており、その税額は年間で銀24匁とされていた。西田地内の机原川(湯里川支流)左岸には「酒屋」の字名があり、16世紀末の西田に酒屋が存在したことを裏付けている。

 また地銭を賦課された屋敷所有者としてみえる「石田市右衛門」、「かど(嘉戸・賀戸)弥右衛門」、「もと口屋(本口屋)与四郎」は、それぞれ銀山・温泉津で活動した石田氏、嘉戸氏、本口屋とのつながりが指摘されている。

 同じく「福井藤五郎」は屋敷単独で見ると最も地銭賦課額が多い人物であるが、天正十七年(1589)の西田八幡宮(現在の水上神社)造営時に大工としてみえる。なお棟札には福井藤五郎春続として記されている。

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 職人関係では、「召かち与三郎」という人物も地銭1匁5分を賦課されている。西田地内の机原川右岸には「鋳物屋」の字名があり、鍛冶屋・鋳物屋が存在していたことがうかがえる。西田周辺には波積本郷や田窪村、南佐木村など江戸期に盛んに砂鉄が採取された地域があり、それらのいずれかの地から鉄が移入された可能性があるという。

 このほか、江戸期に西田村の庄屋をつとめた勝屋氏との関連が想定される「勝屋肥後守」、西田地内の小字名「茶園」との関係が想定される「茶ゑんノ甚三郎」や西田南方の飯原村出身とみられる「飯原信介」、天正十七年の西田八幡宮造営に「社奉行」として関わった竹下宗源らの名もみえる。

関連人物

参考文献

西田の町と矢滝城

西田の町並み

湯里川と西田の町

西田地区中央の岩窟に祀られる火伏観音

火伏観音の岩窟内に安置された石塔群

瑞泉寺。天文九年(1540)に本願寺証如から「瑞泉坊」の寺号と本尊を得たという。

水上神社。中世は八幡大神あるいは八幡宮として棟札に記されている。

水上神社から眺めた西田の「郷」

元亀三年(1572)に開創されたという清源寺。もともとは水上神社(八幡宮)に隣接する字「神宮寺」にあったとも伝えられる

湯里川に架かる中祖橋

矢筈城跡の遠景

*1:石見銀山に関わる諸役の額、および請人についてまとめたもの。石見銀山が毛利氏から徳川氏へと移管された際に作成された。