石見国邑智郡南端の久喜銀山において産出された鉛。同銀山では永禄三年(1560)の銀鉱脈発見以来、銀を含んだ鉛鉱石が採掘され、精錬によって鉛と銀に分離された。このうち鉛は石見銀山へと運ばれ、銀鉱石の精錬に使用された可能性が指摘されている。
久喜銀山の開発
久喜銀山の開発が、いつ頃から始まったかは不明。ただ江戸期にまとめられた「石州銀山記」の「邑智郡久喜山銀山堀初ル根源」によると、永禄三年(1560)、温泉蒼山において初めて銀鉱脈が発見されたとされる(「佐貫家文書」)。実際、温泉蒼から要九郎峠の一帯と東谷には、無数の露頭掘や樋追掘などの古い採掘跡が多数分布している*1。
また「銀山新口之事」という元亀二年(1571)三月の年紀のある史料の写には、久喜・大林銀山の鉱脈や間歩の状況、鉱石の品位(金銀銅)、精錬方法などが記載されている。この史料には、安芸国の高田郡北村金屋谷岩崎高船之城主・毛利飛騨守が銀山を支配し、大林・久喜・大森三ヶ所銀山御引請人御代官は松岡要左衛門という人物が務めていたと記されている(「佐貫家文書」)。
なお、天正十八年(1590)頃の様子を描いたとされる『石見国図』(宮城県図書館所蔵)には、邑智郡南端で安芸国との境に「くき銀山」との表記が見られる。このことから、少なくとも16世紀半ばには本格的な開発が始まっていたと考えられる。
久喜銀山と鉛
久喜銀山は、鉛鉱石が採掘される鉛山であり、採掘された鉛鉱石を精錬することで、銀と鉛が生産された。鉱石中の不純物を除去した精鉱で、およそ鉛13%、銀0.08%であったという。
鉛鉱石は焼竈において松木や炭で焼かれて焼鉱とされ、焼鉱は鉛吹により不純物(スラグ=カラミ)を取り除いた金属鉛に製錬される。この金属鉛は銀を含有しており、灰吹法により銀が抽出された。一方で灰吹によって出来た炉糟(酸化鉛)は、製錬されて鉛となった。この一連の製錬・精錬は、久喜銀山内で行われていたと考えられている。
現在の島根県邑南町久喜の床屋製錬遺跡は、出土した陶磁器から戦国末期には採掘と製錬が行われていたと推定されている。この遺跡からは、焼鉱を作るための「焼竈跡*2」や「鉛吹の炉の跡*3」、「ろかす吹の炉跡*4」が発見されている。またスラグや焼鉱、炉糟(炭酸鉛)などの遺物も見つかっている。
石見銀山と久喜の鉛
久喜銀山は鉛鉱石の銀山であったが、世界的に知られた石見銀山では銀鉱石が採掘された。このため銀の精錬の為に、大量の鉛が必要とされた。
慶長七年(1602)九月二十五日付「大久保十兵衛覚」によると、石見西部の浜田から「ろかす(炉糟)」と「カラミ」が到来し、精錬に利用されたことが分かっている。また寛永八年(1631)、温泉津に大量の鉛、炉糟が搬入されていることが記録に見える。
石見銀山遺跡出土のスラグを鉛同位体組成分析によると、石見銀山遺跡の宮ノ前と石銀(戦国期に栄えたエリア)の試料は、久喜の鉛である可能性が示されている。このことから、久喜の鉛が銀精錬のために石見銀山に搬入されていたことが考えられる。