温泉津に屋敷を持つ商人
出雲富田城に籠城中*1の温泉英永は、彦二久長と連署で杵築大社の御師・坪内重吉に書状を送った。両名は重吉に先勝祈念を頼んでおり、重吉の対応に感謝を伝えている。そして、もし帰国できたならば、石見温泉津にある「せんさきや又衛門」の屋敷一ヶ所を永代給与することを約束した(「坪内家文書」)。
仙崎屋は、長門の要港・仙崎に由来すると考えられる。温泉津において、仙崎方面との商売を担っていたと推定される。また、屋敷の支配権を温泉英永らが握っていることから、仙崎屋は、彼らの被官であったのだろうか。
温泉英永のネットワーク
上記の書状のように温泉英永は、杵築の坪内氏と関係を有していた。また石見銀山にも知行地を持っていた。温泉津を中心として、日本海沿岸部に広域のネットワークを形成していたとみられる。仙崎屋はそのような温泉氏のもとで水陸の交通に関わり、商業を営む商人であったのかもしれない。
参考文献
- 岸田裕之 「大名領国下における杵築相物親方坪内氏の性格と動向」(『大名領国の経済構造』) 岩波書店 2001
*1:永禄四年(1561)から永禄九年(1566)、毛利氏の侵攻に対し、尼子氏は本拠の富田城に籠城して抵抗していた。