石見国安濃郡に中世まで存在した波根湖という潟湖の東岸に位置したとみられる港町。 現在の波根湖は近世からの干拓事業によって水田となっているが、大田市波根町に残る地名「大津」がかつての波根の港だったと推定されている。
明国に知られる
嘉靖四十一年(1562)に明の鄭若曽が著した『籌海図編』には、中国でも知られていた日本海沿岸部の地名が記されている。石見国では「南高番馬」(長浜)や「番馬塔」(浜田)、「有奴市」(温泉津)がみえるが、そこに波根湖沿岸の「番禰」(ハネ=波根)と「山子家」(刺鹿)もみえる。
長浜や浜田、温泉津は日本海水運だけでなく海外との交易も盛んな貿易港であった。波根や刺鹿が臨んだ中世の波根湖にも、国内外の交易船が出入りしていたと推測される。
尼子氏の拠点港
中世は湖と日本海との間に挟まれた砂州だったとみられる柳瀬地区の西の海に面する丘陵に、鰐走城がある。この城は出雲の戦国大名・尼子氏の家臣・牛尾久信が築いたといわれる。尼子氏は鰐走城に重臣の牛尾氏を配置し、波根(波根湖)を同氏の拠点港と位置付けていたとみられる。
交通の要衝として栄える
波根は尼子氏の本国である出雲と、石見銀山を結ぶ交通の要衝にあった。天正三年(1574)六月、上洛を終えて帰国の途上にあった島津家久一行は出雲国境の島津屋を抜けて石見国に入り、「はね(波根)の町」「梁瀬のしゆく(宿)」から「大田といへる村」を経て石見銀山に向かっている(「中書家久公御上京日記」)。
波根から大田そして石見銀山を結ぶ流通路が存在していたことがうかがえる。少なくとも波根の町場や柳瀬(梁瀬)の宿場の存在から、この地域に多くの人や物が行き交っていたことを知ることが出来る。