3.人物
毛利氏の御用絵師。本名は原治兵衛直治。肥前国藤津郡能古見(佐賀県鹿島市)の城主・原豊後守直家の次男。子に狩野次兵衛(雲谷等益)。
豊前小倉細川家の家臣。宇佐郡の御郡奉行をつとめた上田忠左衛門の弟。当主細川忠利によって召し抱えられた。細川家中では葡萄酒やアヘンの製造を担う一方で、医師としての役割も期待されていた。
鎌倉後期から南北朝初期の山城国の来派刀工。仮名は孫太郎。来国行の子とされ、生年は延応二年(1240)頃に比定される。長命であり、少なくとも81歳頃まで作刀を続けていることが確認できる。
能島村上家臣。忽那島俊成名を本領とする俊成氏出身か。天正年間、忽那島や岩城島、越智郡桜井などに所領を得た。周防国秋穂の浦銭も知行していた可能性がある。
能島村上家臣。天正十年(1582)四月の来島村上氏の毛利方離反以降、能島村上氏と小早川氏との間を使者として頻繁に往来した。史料には「久修」として見えることが多い。
能島村上氏の一族。官途名は豊前守。子に吉重、吉次。能島東丸に住んでいたとされる。
能島村上氏家臣。天正十年(1582)の来島村上氏の離反後、能島村上氏の使者として毛利氏・小早川氏との交渉を担当した。関ケ原合戦後は、主家を離れたらしい。
能島村上氏家臣。天正十三年(1585)二月、村上元吉から河野通直のもとに使者として派遣され、元吉が進めていた伊予国越智郡国分山での城普請について説明したとみられる。
備後国世羅郡吉原(現在の広島県東広島市豊栄町吉原)の国人領主。仮名は次郎五郎。永正年間、毛利興元ら周辺の国人と盟約を結んだ。
沼田小早川氏の一族。官途名は民部丞、民部大夫。忠義の子で茂遠の孫。兄に清忠がいる。惣領家とは異なる立場をとっており、元弘の乱では兄とともに後醍醐天皇に味方し、建武の乱以後は南朝方として戦った。
南北朝初期の小早川一族。美作五郎。左衛門尉。東寺領であった伊予国弓削島荘に他の小早川庶子家とともに進出し、同荘の鯨浦に代官をおいて支配した。その姓から、本拠は安芸国豊田郡安宿郷であったと推定される。
沼田小早川氏庶子家・浦氏の初代当主。左衛門太郎。小早川宣平の子。兄弟に小早川貞平、猪熊資平、小坂将平、小泉氏平、生口惟平、末弘明平、応庵祖璿らがいる。伊予国弓削島荘に他の庶子家とともに進出した。
小早川氏の庶子家・小早川生口氏の初代。幼名は道祖鶴丸。官途名は弾正左衛門尉。惣領家である沼田小早川氏当主・小早川宣平の子。公実の父。兄弟に小早川貞平、猪熊資平、小坂将平、小泉氏平、浦氏実、末弘明平、応庵祖璿らがいる。
沼田小早川氏庶子家の上山氏の当主。官途名は安芸守。出家して聖玖を号した。本家にあたる椋梨子氏を盟主とした一揆に加わり、惣領家に対抗した。
沼田小早川氏庶子家の上山氏の当主。官途名は掃部助。父は上山信平、祖父は和木為平。系図によると彦平という兄がいた。南北朝期、後醍醐天皇方(南朝方)となり、備後国や安芸国で足利尊氏方(北朝方)と戦った。
竹原小早川氏の家臣。15世紀末頃の同氏の正月儀礼を記した史料にその名がみえる。安芸国風早浦の領主とみられ、大きな経済力を有していた可能性がある。
備中国新見荘の惣追捕使・福本盛吉の兄弟。女性ともされる。新見荘代官祐清の死後、その遺品の形見分けを望む書状を東寺に書き送ったことが知られる。
東寺の僧侶。寛正三年(1462)に備中国新見荘の代官として現地に下向し、支配にあたった。東寺としては久々の直務代官であったが、その支配は困難を極め、最期は現地で横死することとなった。
中国明朝の武将。劉顯の子。江西南昌の人。苗族をはじめとする諸民族から構成される家丁(私兵)を率い、後には朝鮮で捕虜となった日本兵も自軍に加え、南西中国の反乱鎮圧などで活躍した。怪力の持ち主で、重量のある刀の操作が巧みであることから「劉大刀…
中国明朝の武将。字は賓陽。浙江温州府金郷衛の出身(申欽『象村集』巻57)。倭寇討伐で頭角を現し、朝鮮での日本軍との戦い、四川での反乱鎮圧などに功を挙げた。火器運用のエキスパートとしても知られた。
中国浙江沖の双嶼を拠点としたポルトガル人海商。16世紀初頭、ポルトガルのインド副王に従い、インドで活動していた。後に双嶼に拠点を移し、中国や東南アジア海域での貿易に従事して財をなした。
中国浙江沖の双嶼を拠点としたポルトガル人海商。フルネームはランサロッテ・ペレイラ・デ・アブリュウ。中国文献では「浪沙囉的嗶咧」としてみえる。双嶼のポルトガル人有力者の一人であり、明軍による双嶼攻撃の要因を作ったとされる。
中国明朝の辺将。寧波衛指揮使。1523年(大永三年)五月の寧波事件において、大内氏の遣明使節の捕虜となり、日本に連れ去られた。事件後、袁璡の本国送還が日明間の交渉における懸案事項の一つとなる。
中国明朝の寧波府鄞県を出身とする明人。字は素卿。宋素卿とも名乗った。若くして日本に渡り、細川高国の派遣する遣明使節に関わった。後に寧波事件の中心人物となり、明朝当局に収監された。
陶氏家臣。官途名は藤蔵人。筑前国博多において須子備後守とともに陶氏の銭米の管理・出納に関わった。
陶氏家臣。筑前国博多において糸原勝秀とともに陶氏の銭米の管理・出納に関わった。実名は惟明である可能性がある。
安芸国竹原庄西谷にあった萬福寺の住職。永禄三年(1560)、楽音寺に大般若波羅蜜多経が施入された際、折本作業の中心を担った。
陶氏家臣。陶興房、後に隆房に仕えた。官途名は惣右衛門尉。奉行人として陶氏所領および所領から収納される銭米を管理にあたった。陶興房の側近として興房への取次を担当することもあった。
マスリパタムを拠点に活動した大商人。ペルシア出身。ベンガル湾沿岸部の交易に関わる一方で、マスリパトナムの有力者の一人としてオランダと総督(ハヴァールダール)の仲介も行っている。後に故郷であるペルシア方面へも交易船を派遣している。
戦国期の豊後府内に住んでいた渡来系中国人。絵画技術を持ち、大友氏のもとで貴重な顔料の調達に関わることもあった。天正末年頃、府内唐人町や隣の稲荷町の住人と伊勢参詣を行っている。