戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

陳 寅 ちん いん

 中国明朝の武将。字は賓陽。浙江温州府金郷衛の出身(申欽『象村集』巻57)。倭寇討伐で頭角を現し、朝鮮での日本軍との戦い、四川での反乱鎮圧などに功を挙げた。火器運用のエキスパートとしても知られた。

倭寇討伐で活躍

 康熙『平陽県志』巻一「人物」によれば、陳寅は膂力が人並み外れており、奔馬を追求して、その尾を引きずり倒して連れ戻すことができた。万暦年間(1573〜1620)に将才を見込まれて「金盤備倭」(金盤備倭把総)となり、海上で著名となったという。

 金盤備倭把総は、後期倭寇が猛威を振るった1556年(永禄二年)に設けられ、隆慶年間(1567〜1572)から温州府寧所村を基地としていた(万暦『温州府志』巻六「海防」)。陳寅は同地を拠点として兵船を統括し、倭寇討伐に従事して名を挙げたものと考えられる。

 なお陳寅自身は17、18歳から倭寇討伐に従事したと後に語っている。また劉顯(劉綎の父)や兪大猷と戦陣を同行したとし、特に兪大猷は文武兼備の人で、当時の人々は彼を称賛したとする(朝鮮『宣祖実録』巻96)。兪大猷は戚継光と並び火器に精通した名将として知られており、彼に同行した経験は、陳寅の火器習熟に大きな影響を与えた可能性が指摘されている。

西洋番鳥銃の所持

 1596年(慶長元年)、陳寅は明軍の中枢機関である京営(北京在駐の禁軍組織)の遊撃となり、北京へと至る。この時、陳寅は自身が所持する西洋番鳥銃を趙士楨という人物に示している(『神器譜』巻2)。趙士楨は、陳寅と朶思麻(オスマン朝出身の人物)の指導を受け、西洋番鳥銃と嚕蜜銃の模造に成功したと述べており(『神器譜』巻1)、陳寅が鳥銃の製法にまで習熟していたことがうかがえる。

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 陳寅がどのように西洋番鳥銃を入手し、その製法に習熟できたかは明らかではない。中国明朝には16世紀前半にはポルトガルから鉄砲が伝来しており、1548年(天文十七年)に密貿易拠点となっていた双嶼を明軍が攻撃した際、捕虜とした「番酋」を通じて鉄砲および火薬の製造技術が改めて明朝に伝わっていた。

 またゴンサーレス・デ・メンドーサ『シナ大王国誌』には、1575年(天正三年)の福州において、明朝の巡撫が、スペインの軍人に剣1振と火縄銃1挺、火薬壺1個の借用を要請し、その模造を試みていたことが記されている。これらのことから、陳寅が倭寇討伐にあたっていた時期の浙江や福建などの中国東南の沿岸地域は、各種の鉄砲やその技術を入手し得る環境であったことが分かる。

朝鮮での戦い

 1597年(慶長二年)、明朝・朝鮮と日本との講和交渉が破綻し、日本軍が再び朝鮮への派兵を開始。同年五月、陳寅は朝鮮救援軍に編入され、「南兵」の将官を訓練・統率することとなった。明朝の朝鮮救援軍を統率する経略の邢玠による要請を受けてのことだった(『神宗実録』巻310)。なお「南兵」とは、火器を用いた戦闘を得意とする浙江の兵を指す。鉄砲の扱いに優れた日本軍に対抗するため、浙江出身で倭寇討伐の経験があり、火器に精通する陳寅が選ばれたとする見方もある。

 陳寅は明軍副総兵・李如梅の配下に「南兵遊撃」として編入され、朝鮮半島南部沿岸に位置する蔚山(ウルサン)へと進軍した(諸葛元聲『両朝平壌録』巻4)。当時、日本軍は朝鮮半島南部の沿岸地域において日本式築城技術を投入した城郭(倭城)を数多く築いており、その倭城の主要拠点の一つが蔚山だった。

 十二月二十三日未明、経理楊鎬、提督麻貴、副総兵李如梅らが率いる明軍、および都元帥権慄ら率いる朝鮮軍蔚山城を急襲し、戦闘が開始された。初日は明軍が一方的に勝利を収めたが、二十三日夜半に日本の加藤清正らが西生浦から急遽駆けつけて蔚山へ入城したことで、戦況は一進一退のこう着状態となった。蔚山の倭城は鉄砲を用いた守城にすこぶる有用であり、明・朝鮮軍は日本軍による鉄砲の掃射で多くの戦死者を出したという。

 陳寅は、緒戦において兵を率いて蔚山城の周囲に築かれていた防御柵を突破し、日本軍に対して大きな打撃を与えるなど大いに活躍した(谷応泰『明史紀事本末』巻62「援朝鮮」)。しかし勢いに乗じて兵を率いて蔚山城に突入しようとしたところ、明軍を指揮する経理楊鎬の命令*1により退却を余儀なくされ、その結果、明軍は敗走した(『神宗実録』巻317)。この戦いで陳寅は日本軍の鉄砲に被弾して負傷し、漢城(朝鮮の首都)へと送還された(申霊『再造藩邦志』巻4)。

 なお、翌1598年(慶長三年)正月、漢城にて、陳寅は朝鮮国王・宣祖に自身の蔚山城での戦いを語っている。すなわち、城の守りが堅く、草を積んで焼こうとしたが、銃丸が雨のように降り注ぎ、近づこうとする者は倒れた。そこで大砲を用いて城塞を撃破しようとしたが、これはうまくいかなかったという。また、援軍に来た日本の軍船2隻を大砲で撃破したとも述べている(朝鮮『宣祖実録』巻96)。

 漢城滞在中、陳寅は朝鮮の重臣・柳成龍と交流したり(柳成龍宗孫家所蔵『唐将書帖(乾)』)、南大門外における関羽廟建設の費用を供出するなどしている。そして、戦争が終わった翌年の1599年(慶長四年)四月に明朝へと帰還した(申欽『象村集』巻57)。

四川での戦い

 明朝に帰還した陳寅は、朝鮮に派遣された多くの有力武将同様、四川播州における楊応龍の乱鎮圧に投入される。楊応龍は、四川と貴州を結ぶ要衝である播州を根拠として世襲的に大きな勢力を有していた楊氏の出身で、1572年(元亀三年)に宣慰使を継承し、当初は明朝に恭順であった。しかし後に在地勢力間の抗争から弾劾に遭い、これを契機に多数の苗族(四川の少数民族)を率いて明朝に反旗を翻していた。

 1599年(慶長四年)、陳寅は貴州副総兵として貴州総兵官・李応祥の配下に編入され、朝鮮から四川播州に転戦することになる。1600年(慶長五年)三月、陳寅は火器を活用して楊応龍軍を攻略し、数々の場面で勝利を収めた(李化龍『平播全書』)。同年六月、乱の最終局面において、陳寅の部隊は同じく朝鮮から転戦した劉綎の部隊などとともに楊応龍軍の城塞に突入し、数年来にわたり鎮圧困難であった楊応龍軍を一気に鎮圧することに成功した。

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 楊応龍の乱の平定後、陳寅は貴州から雲南へと転任し、雲南巡撫の陳用賓のもと、副総兵として任地の反乱鎮圧などの軍事活動に従事した(康熙『雲南通志』巻16下「師旅考」)。しかしある時、雲南緬夷(雲南の土着勢力)の阿瓦が数万人の軍勢で木邦宣慰司を攻囲した際、明軍が救援に赴かなかったということがあった。1606年(慶長十一年)六月、この件で罪を問われ陳寅は罷免されてしまう(『神宗実録』巻422)。

貴州での火器普及

 失脚した陳寅は、雲南から本籍地のある浙江温州府へと帰郷の途に着き、途中で以前の任地であった貴州の平越衛に立ち寄る。その際、貴州布政司参政として貴州東部の新鎮道を統括していた盛萬年から、火器に精通していることを見込まれ、彼の傘下で働くこととなった。

 盛萬年は貴州に蟠踞する苗族を帰降させるにあたって火器を活用した。このため鉄を買い、荊州から硝石や硫黄といった火薬の原料を購入して、火器を製造。各地に配備して、人に操作法を学習させた。陳寅はこれら火器の製造・導入の中心的役割をになったと推定される。

 数年後、貴州巡撫に胡桂芳が就任する。胡桂芳は陳寅とともに楊応龍の乱の鎮圧にあたったことがあり、陳寅とは旧知の仲だった。胡桂芳は陳寅を練兵官とし、大いに火器を量産。これにより、貴州中の兵士に火器が知られるようになったという(盛萬年『拙攻編』)。陳寅はその後も胡桂芳の下で働き、1613年(慶長十八年)には貴州副総兵として同地の反乱鎮圧に功を挙げている(『神宗実録』巻512)。

晩年

 1619年(元和五年)、遼東でのサルフの戦いにおいて、明軍が女真軍に大敗。劉綎や杜松らの将軍も戦死してしまう。これを受けて明朝は歴戦の武将を起用する方針を採用し、朝廷は陳寅を推薦した。陳寅の歴年の武功が、中央でも知られていたことがうかがえる。

 1620年(元和六年)七月頃、陳寅は「感激思奮以期殲虜疏」と題する疏文を上奏(程開祜輯『壽遼碩学画』)。兵を率いて任地に駆けつけようとしたが、高齢のため、ほどなくして卒したという*2。死後、太子少傳栄禄大夫を追贈され、祭葬を賜った(康熙『平陽県志』巻一「人物」)。

参考文献

  • 久芳崇 「十七世紀初、西南中国における火器の伝播と普及」(『東アジアの兵器革命 十六世紀中国に渡った日本の鉄砲』 吉川弘文館 2010)

李朝実録 : 太白山本 巻之62(『宣祖実録』巻96、宣祖三十一年正月丙午の条)
国立国会図書館デジタルアーカイブ

*1:『神宗実録』には、陳寅の功績が李如梅のものとなることを楊鎬が望まなかった為と記されている。

*2:1573年に17歳であったと仮定すると、64歳以上の年齢であったと推定される。