戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

海滄 かいそう

 中国福建・厦門湾北岸の港町。対岸の月港とならぶ密貿易港として知られた。

海外交易の拠点

 中国明朝の鄭若曽が1562年(永禄五年)に著した『籌海図編』によれば、「西洋」*1の商船が広東で貿易をしていたが、抽分*2の支払いを避け、かつ陸路の運搬をしなかった。そこで福建人は、これらの商船を海滄や月港へ導き、浙江人は双嶼へ招いたという(『籌海図編』巻12 開互市)。

 『福建通志』では、福建で番舶(外国船)と通じ、海路に通じ、操船が巧みだとする文脈で、梅嶺、龍渓、月港とともに海滄の名がみえる。また『籌海図編』には「海滄船」*3という、大福船よりも小型の船が紹介されている。海滄が海外交易の拠点であると同時に、造船も盛んであったことがうかがえる。

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明朝の海辺防衛

 1530年(享禄三年)、福建の巡撫都御史の胡璉は、海滄に安辺館を設け、通判一人を置いて監視にあたらせた(万暦『漳州府志』)。その役割は「違禁通番」(違法な海外交易)の監視であり(『籌海図編』巻4 福建倭変紀)、6年後の1536年(天文十五年)には150人の兵を置くことが提案される(『明世宗実録』)。しかし、海滄の人は悍譎であり、半年ごとの輪番で通判を置いたものの、上下に心なく、地方の海防の役には立たなかったと評価されている(『籌海図編』巻4 福建事宜)。

 明朝の海辺防衛の拠点は、後に海滄対岸の月港に移った。月港には1551年(天文二十年)に靖海館が設けられ、1563年(永禄六年)には海防館に改組されている(万暦『漳州府志』)。

参考文献

  • 伊川健二 「16世紀前半における中国島嶼部交易の不安と安定」(鈴木英明 編 『中国社会研究叢書 21世紀「大国」の実態と展望7 東アジア海域から眺望する世界史―ネットワークと海域』 明石書店 2019)

海滄船 籌海図編18(国立公文書館デジタルアーカイブ

開互市 籌海図編17(国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:中国の西南岸より南の諸地域を指す。シャムやチャンパなど。

*2:抽分は都御史の陳金の題奏により1509年以降に広州で実施された制度。積載した貨物のうち3割を官府に納め、残りの対価を給付して官が収買する。

*3:海滄船は大福船よりも小型の船で、風が弱くても動くことができた。明海軍では、大福船を補助する船と位置付けられていた。