戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

善妙 ぜんみょう

 弘治三年(1557)に豊後国主・大友義鎮(宗麟)が中国明朝に遣わした使僧。一方で中国明朝の記録には「夷目」あるいは「倭目」とみえ、明朝からは倭寇頭目と認識されている。明朝に帰順しようとする倭寇首領・王直とともに浙江沖の舟山島に至ったが、同地で明軍と交戦することとなった。

倭寇首領・王直の帰国

 1557年(弘治三年)、善妙は豊後大友氏の使節を率いて中国明朝に渡った。その経緯は、中国側の『明世宗実録』に記されている。

 この年、中国明朝の浙江総督・胡宗憲は倭寇の首領王直を帰順させるため、その母子を撫犒し、王直自身には従前の罪を許し、海禁政策を緩和し、日本人との貿易を許可すること*1を伝えた。この政策転換を知った王直は大喜びし、「山口」や「豊後」等の西日本各地の領主に連絡。「島主源義鎮」(豊後国主・大友義鎮)も王直同様に喜び、早速に「巨舟」を艤装し、貿易を行うため「夷目」善妙以下40余人を帰国する王直に随行させた。

 同年十月初め、善妙と王直ら一行は浙江沖の舟山島西部・岑港に上陸。その数は500人余りであったという。しかし十一月、王直は明朝政府によって捕縛されてしまう。さらに岑港には善妙ら大友氏使節団と王直残党を討つべく、明朝官軍が迫っていた。

 王直配下だった毛海峰は、善妙らと分かれて防御柵を並べ、官軍の岑港入港を阻止。四面を囲んで包囲する官軍を相手に防衛戦を展開することになった。

舟山島脱出戦

 翌1558年(永禄元年)二月、善妙は毛海峰に合流し、船を棄て岑港に立て籠った。さらに善妙は、舟山島定海の道隆観に滞在していた徳陽に助けを求めている(『日本一鑑』)。徳陽は善妙と同じく大友義鎮の使僧であり、善妙の一回前の大友氏遣明使節として1557年(弘治三年)八月に舟山島に至り、朝貢許可が得られないまま、同島に留まっていた。

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 善妙の救援要請を受けた徳陽は、すぐには合流せず、滞在中に得たとみられる人脈を活かして、明朝関係者に事態収拾を働きかけたらしい。しかし一連の交渉は不調に終わり、徳陽は貨財を焼き捨てて岑港の善妙に合流することとなった。

 1558年(永禄元年)七月、岑港の攻防で船を失った大友氏使節一行は、「桐油鉄釘」といった造船用物資を調えて舟山島北面の柯梅に移動。新たな船の建造に取り掛かった。総督・胡宗憲率いる明軍は柯梅の「倭徒」を討つべく攻撃を仕掛けるが、失敗に終わっている。

 十一月十三日、舟山島柯梅の善妙ら一行は、完成した船に乗って出航。総兵・兪大献が率いる明朝水軍の攻撃を受け、末船が捕らえられる被害があったが、本船はこれを振り切って南洋へと逃れた。

大友氏使節の行方

 明軍から逃れた大友氏使節一行は、しかし日本に帰国せずに中国沿岸をさらに南下し、福建省浯嶼に現れている。『明世宗実録』嘉靖三十八年(1559)四月丙午条および同年五月癸未条に「浙江前歳舟山倭、移舟南来者、尚屯浯嶼」、「福建浯嶼倭、始開洋去、此前舟山寇、随王直至岑港者也」とある。

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 浯嶼は漳州湾南東部の小島で、王直死後に配下の倭寇を吸収した洪廸珍らの拠点となっていた。洪廸珍は、福建の海域に倭寇を引き込んだ張本人と明朝に認識されており(『明世宗実録』)、1555年(弘治元年)頃から南澳を拠点に日本との密貿易を行い、巨万の富を得たともいわれる(康煕『海登県志』巻20 叢談志)。

 舟山島脱出後、善妙ら大友氏使節は、現地の倭寇勢力と連携して華南海域での商取引を試みていたのかもしれない。

参考文献

  • 鹿毛敏夫 「日本「九州大邦主」大友氏と中国舟山島」(『アジアン戦国大名大友氏の研究』 吉川弘文館 2011)
  • 佐久間重雄 「中国嶺南海域の海寇と月港二十四将の反乱」(『日明関係史の研究』 吉川弘文館 1992)

『明世宗実録』嘉靖三十六年十一月乙卯条
皇明実録463 (国立公文書館デジタルアーカイブ

*1:原文は「寛海禁、許東夷市」