戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

山口酒 やまぐちさけ

 周防国山口で造られたとみられる酒。天文八年度と天文十六年度の遣明使節の記録にみえる。両度とも山口を本拠とする大内氏が経営主体となっており、赤間関等で遣明船に積み込まれたとみられる。

周防国山口

 14世紀末頃の大内弘世の時代、周防大内氏は山口に本拠を移したとみられている。15世紀中頃、大内家臣の山口集住が図られ、人口が増加していった。16世紀に入ると、寺院の数も増加し、多くの道路*1と市・町*2が存在する大都市へと発展。宣教師フランシスコ・ザビエルは、山口について「大きなまち」と書簡に記している。

 このような都市山口の需要の中で酒造業も発達し、後述する山口酒の製造が始まったと推定される。

遣明使節の酒

 天文八年(1539)三月五日、大内氏が経営主体となった遣明使節が博多を出航。五月二十五日、明国の寧波に到着した。使節団はここで、北京入城の許可が出るまで実に4ヶ月滞在することになる。

 寧波滞在中の六月十八日午後、使節団副使・策彦周良のもとに一号船居座・大光梵琢と土官・吉見治部丞正頼が訪ねてきて、酒盃をあげている(「初渡集」)。「蓋倭防州山口物也」とあるので、酒は周防山口から持ってきたものだった。

 策彦周良の日記には、明国滞在中に使節団関係者と「日本酒」や「倭酒」を飲んでいる記事が散見されるので、遣明使節が多量の酒を日本から持ち込んでいたことがうかがえる。その中に山口で造られた酒もあったのだろう*3

 この天文八年度遣明使節団は、天文十年(1541)七月十一日に長門国赤間関に帰着した。同月十七日、策彦周良は大内家臣・相良武任の来訪を受け、武任が持参したらしき「山口酒」を飲んでいる(「初渡集」)。翌日、武任が「山口物」の大樽一つを周良に遣わしているので、周良が殊の外喜んでいたのかもしれない。

 大内氏は天文十六年(1547)にも遣明使節を派遣。策彦周良は使節団の正使に抜擢される。十一月十三日、滞在中の舟山群島の嶴山にて*4、周良は二号船居座の天初啓竺や景順らと「山口酒」を飲んでいる(「再渡集」)。天文十六年度遣明船にも山口酒が積み込まれていたことが分かる。

防州之名酒

 策彦周良は天文十九年(1550)に日本に帰国した後、参内して後奈良天皇に謁し、天酌を受け、銀塊と菊花を下賜された。以後、基本的に嵯峨の妙智院(天龍寺塔頭)に住し、天正七年(1589)に79歳で入滅した。

 その十数年後 、日野輝資の日記『輝資卿記』の慶長十二年(1607)三月十二日条に、「防州之名酒」がみえる。周防国の酒が京都方面でも知られていたことがうかがえる。

参考文献

  • 加藤百一 「城下町の銘酒(その2)」(『日本醸造協会誌』97巻 2002)
  • 増野晋次 「中世の山口」((鹿毛敏夫・編 『大内と大友−中世西日本の二大大名−』 勉誠出版 2013)
  • 伊藤幸司・岡本弘道・須田牧子・中島楽章・西尾賢隆・橋本雄・山崎岳・米谷均 「妙智院所蔵『初渡集』巻中・翻刻」(中島楽章・伊藤幸司 編 『寧波と博多』 汲古書院 2013)
  • 須田牧子「『初渡集』・再渡集』ー天文八・十六年度船の旅日記ー」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 須田牧子「策彦周良」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 藤井崇 『ミネルヴァ日本評伝選 大内義隆 ー類葉武徳の家を称し、大名の器に載るー』 ミネルヴァ書房 2019

策彦和尚入明記初渡集 天文十年七月十七日条(国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:久保小路や馬場殿小路、魚物小路など

*2:大町や窪小路町、今市、中市など

*3:山口酒以外に産地が分かる酒としては、京都の柳酒がある。天文十六年度の遣明使節の際、天文十七年(1548)正月二十一日と二月十五日に土官(吉見正頼)と柳酒を飲んでいる(「再渡集」)。

*4:一行は六月一日に寧波の外港の定海に至るも「十年一貢」の貢期違反を理由に寧波への入城を許されず、舟山群島の嶴山島で貢期が満ちるまで待つこととなった。