戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

門司 日向守 もじ ひゅうがのかみ

 大内家臣。天文十六年(1547)の遣明船の一号船に「御用人衆」の一人として参加。大内氏が調えた進貢物を明朝の礼部に納めた。

天文十六年度遣明船の大内被官

 大内氏が経営主体となった天文十六年度遣明船の一号船には多くの大内被官が乗っていた。土官(遣明船経営を担当)の吉見正頼とその副官の杉隆宗、御用人衆には日向守以外にも矢田三郎兵衛、杉佐渡、朽綱右京、福郷治部、御郷源三、矢田民部らがいた(「大明譜」)。

 門司日向守自身の事跡は不明だが、豊前国門司六ヶ郷を本拠とする門司氏の出身と考えられる。天文十六年前後では、天文初年以降の豊後大友氏との合戦で活躍した門司飛騨守依親・次郎頼房父子、天文二十一年(1552)に祖父依親の跡を相続した民部丞輔親、天文十年(1541)四月の安芸国桜尾城攻めで活躍した門司弥三郎らの存在が確認できる(「門司文書」)。

 なお前回の天文八年度遣明船には門司中務丞という人物が参加しており、日向守と同一人物かその近親者の可能性がある。同一人物の場合は、前回の経験を期待しての登用とみられる。上記の大内被官のうち、吉見正頼と矢田三郎兵衛は天文八年度にも参加している。

 また御用人衆の内では、御郷源三が門司日向守とともに北京まで赴いている。彼自身の事跡もまた不明だが、御郷氏は以前から大内被官として活動がみられる*1大内氏一族・右田氏の庶流である可能性もあるという。

寧波入港まで

 天文十六年(1547)二月二十一日、周防山口を出発した遣明使節は、筑前博多肥前平戸、河内浦を経由して、四月十一日に五島列島奈留島に到着した。

 五月四日、遣明船4艘とも奈留島を出船し、十三日に一号船は中国の台州府(目的地である寧波の南隣の州)に到着。遣明船団は、一時散り散りとなったものの合流を果たし、六月一日、4艘そろって寧波の外港・定海に入港した。

 しかし明朝側からは「十年一貢」の貢期違反であるとして、一行の寧波入港は認められなかった。しかたなく遣明船団は舟山群島の嶴山島に移り、陣屋を建てて停泊。貢期が満ちるまで待つこととなった。この嶴山島滞在中、一号船の副土官・杉隆宗が死亡している。

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 年が明けて天文十七年(1548)正月三日、一行は乗船し、同じ舟山群島の川山島に移った。遣明使節正使・策彦周良の日記によると、この日と翌日、周良は御用人衆と酒を飲んでいるので、日向守も加わっていたとみられる。さらに五日の夕方、周良は酒席を設けて日向守と矢田三郎兵衛らを労っている。

 その後明朝側との交渉がまとまり、三月八日、一行は再び定海に入港。同十日、川を遡って、ついに寧波府へ入港を果たした。

 寧波滞在中の日向守の活動は不明だが、策彦周良の日記には、四月二十五日に門司(日向守)と継光庵(二号船居座・天初啓竺)の来訪があり、一盞の酒をすすめたことが記されている。八月十四日には、日向守が周良に柿一盆を贈っている。

明朝への進貢

 天文十七年(1548)十月六日、正使、副使ら50名は、ついに明朝の首都北京に向けて寧波を出発する。御用人衆からは門司日向守と御郷源三が同行しており、北京への道中、両名は何度か策彦周良のもとを訪れて酒を飲んでいる

 翌年の天文十八年(1549)四月十八日、一行は北京に到着。宿所である会同南館に入った。二十日、周良は副使・竺裔寿文、釣雲(一号船居座・雪窓等越)、慈眼(二号船居座・景順)、江雲(一号船居座・周泰)を招いて「倭酒」をすすめている。この時、御用人衆の両名も招かれており、同じく一盞をすすめられている。

 五月六日、進貢物の礼部への収納が行われた。運搬に際しては、鴻臚寺通事*2の温潤と胡淓が前導し、礼部の伴送官が護衛を担った。この時、門司日向守と御郷源三も通事に付いて礼部に赴いている。

 その後、進貢物収納は無事に終わり、策彦周良は一同と「歓顔口吟」したと日記に記している。さらに同月二十日、礼部主事から十九日に貢物は宸覧されたとの連絡が入り*3、一同喜んでいる。

進貢の品々

 京都妙智院所蔵『天文十二年後 渡唐方進貢物諸色注文』によれば、天文十六年度遣明使節の進貢物は、馬、硫黄、瑪瑙、屏風、、硯箱、文台、太刀、鑓などであったらしい。その調達は、陶隆満ら大内氏奉行人によって行われていた。

 進貢物の内、瑪瑙は大小20塊を京や堺で購入している。天文八年度遣明船の際は、大内義隆は大坂本願寺の証如を通じて加賀産の瑪瑙の調達。今回も瑪瑙の拠出を要請したものの、証如には断られていた(『天文日記』)。

 屏風は三双で、天文十年(1541)秋に狩野元信に制作が依頼され、翌々年六月に山口に到来している。扇は百本が準備された。花鳥柄の絵を施したものが指定され、同じく狩野元信に制作依頼されている。

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 硯箱は、蓋の上に龍が二匹あしらわれており、蒔絵の一種である梨子地で制作された。硯箱の中味である硯については、記載がない。応仁度の遣明船では、京都五山が拠出した石王寺硯*4180面がリストアップされていた(『戊子入明記』)。

 一方、大内領国では赤間硯が名産であった。策彦周良も天文八年度の渡明の際に土官・矢田備前守増重から特地紙一束とともに「関硯」一面を贈られている(「初渡集」天文八年三月十日条)。

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北京での日々

 五月十三日、周良は日記に「炎熱酷」と記している。夏の北京は猛暑であった。翌十四日、副使・竺裔寿文が「冷麺」を作り、御用人衆と客衆が招かれている。六月二日も周良が「熱甚」と記す猛暑であり、冷麺が作られ、門司日向守と御郷源三も同席している。

 六月二十八日、門司日向守は卓子(テーブル)を作り、策彦周良に贈っている。北京の職人に製作を発注していたのかもしれない。

 八月九日、約4ヶ月の北京滞在を終えて使節団は復路についた。寧波への帰還は同年十二月三十日であった。

 翌天文十九年(1550)四月十七日夜、陸揚げされていた一号船を水に浮かべ、二十日に「御乗そめ」と祈祷等が行われた。遣明船団は、五月中には寧波を出航し、帰朝の途についたと推定される。

参考文献

  • 和田秀作 「周防右田氏の相伝文書について」(『山口県文書館研究紀要』41 2014)
  • 北九州市立自然史・歴史博物館 編 『門司文書』 北九州市立自然史・歴史博物館 2005
  • 岡本真・須田牧子 「宮内庁書陵部所蔵『策彦周良等往来雑記』」(『東京大学史料編纂所研究紀要 』24 2014)
  • 岡本真・須田牧子 「天龍寺妙智院所蔵『入明略記』」(『東京大学史料編纂所研究紀要 』27 2017)
  • 岡本真「通事」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 伊藤幸司 「『天文十二年後 渡唐方進貢物諸色注文』ー朝貢品をいかに調えるかー」(村井章介 編 『日明関係史研究入門−アジアの中の遣明船』 勉誠出版 2015)
  • 「策彦和尚入明記再渡集二巻」(『大日本仏教全書』276) 国会図書館デジタルコレクション

策彦和尚入明記再渡集 天文十八年五月六日条(国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:永正十七年(1520)、御郷弥九郎重保が長門国吉田郡・厚狭郡の段銭奉行だったことが史料にみえる(「山口大神宮文書」)。

*2:鴻臚寺通事は、北京にあって吉凶儀礼や外国使節の朝見などを管掌した鴻臚寺に所属し、使節が寧波から上京した後、その対応にあたった。かつては大通事とも呼ばれたためか、策彦周良は日記で「大通事」という呼称を用いている。

*3:ただし馬と瑪瑙は二十一日に御覧に備えるとのことだった。

*4:丹波国石王寺山から産出する黒石で作った硯。