戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧

トニナ Toniná

マ海抜800〜900mの丘の上と山腹に建造されたマヤ古典期の高地性集落。現在のメキシコのチアパス州に位置した。なお「トニナ」は現代の呼称で、古典期には「ポ」または「ポポ」と呼ばれたとみられる。

笛吹きボトル(中南米) ふえふきぼとる

紀元前から紀元後16世紀まで南米で栄えたアンデス文明では、水や空気を入れると音が鳴る「笛吹ボトル」と呼ばれる土器が数多く使われていた。儀式の際などに神聖な酒「チチャ」を注いで音を鳴らしたともいわれる。その内部構造は複雑で、製法や音の鳴らし…

熱田 秀信 あつた ひでのぶ

石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。

三宅 久重 みやけ ひさしげ

石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。

安原 知種 やすはら ともたね

備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の…

服部 就久 はっとり なりひさ

毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された本城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が本城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かって…

生田 就光 いけだ なりみつ

毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。

吉田 与三右衛門 よしだ よそうえもん

石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一…

田辺 治綱 たなべ はるつな

石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。

小林 成久 こばやし しげひさ

石見銀山の栃畑谷の住人。仮名は万助。本拠は出雲国秋鹿郡大野荘であり、栃畑では「田辺屋敷」に居住していた。天正年間には同族とみられる小林之久・同吉久も安芸国厳島神社に回廊を寄進している。

銀山 ぎんざん

石見銀山の鉱山町。大永七年(1527)に銀山開発が始まると、仙ノ山一帯には鉱山労働従事者や職人、商人らが集まって巨大な都市が形成され、膨大な物資集散が行われた。なお石見銀山自体は戦国期は「佐間(佐摩)銀山」と呼称されていた。

肥中屋 孫二郎 ひじゅうや まごじろう

石見国温泉津に居屋敷を持っていた商人。居屋敷は毛利元就から給与されており、元就死後に輝元によって安堵された。その名から、長門国肥中との関係性が指摘されている。