戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

安原 知種 やすはら ともたね

 備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。

徳川家康への銀献上と釜屋間歩の開発

 『徳川実紀』によれば、慶長八年(1603)八月一日、「石見国土人安原伝兵衛(安原田兵衛知種)」が大久保長安に伴われて徳川家康に拝謁した。

 知種は、大久保長安の許可を得て石見銀山で銀を採掘し、年に三千六百貫、あるいは千貫・二千貫の銀を上納していたとされる。さらに拝謁にあたり銀を献上。その際、一間四面の盤の上に敷き詰めた白砂の上に蓬莱山のかたちに粋精(銀鉛鉱)を積み上げていたという。

 八月三日、家康は小堀正次を使者として、知種に「備中」と名乗らせるよう大久保長安に伝達。知種は家康のいる伏見に召し出され、家康着用の羽織と扇を下賜された。

 上記の『徳川実紀』の記事は、「銀山旧記」と「貞享書上」*1が典拠とされている。知種の徳川家康への御目見得の背景にあったとみられる「釜屋間歩」発見の経緯について「銀山旧記」には以下のようにある。

天正年中に安原田兵衛草壁真人知種といふ者あり、備中早島の人なり。来りて本谷に住居せり、久しく銀山に心を尽しけれども金銀を費やすのみにして外に方便もなかりしかば、常に歩を運ぶ清水寺の観音へ祈願せんとて、七日潔斎しけるが、第七の暁に銀の釜を賜はると霊夢を得、時の奉行大久保石見守殿へ言上す(中略)さて石見守殿、彼の安原が夢を聞き驚き言われけるは、吾も又、霊夢を得たり。疑うところにあらず、とて、多くの財宝金銀をたまわり

 安原知種が天正年間から石見銀山での採掘に従事していたこと、銀山内の清水寺に祈願したところ釜屋間歩発見につながる霊夢を見たこと、同じ夢を見ていたという大久保長安から開発の資金援助を受けたことなどが分かる。

 石見銀山では文禄年間頃から「横合」という名の新しい水平坑道の開削技術が取り入れられようとしていたという。縦坑の裏へ谷底から坑道を掘れば、上から下へ掘り下げるとき必要とされる、水を汲み上げる費用を省くことができるようになる。それが「横相」の技術の大きな利点であったと考えられている。釜屋間歩や大久保間歩などは、まさに横相であった。

 一方で横相の採用には、おびただしい資金の投入が必要とされた。前述の「銀山旧記」における大久保長安の資金援助は、知種による釜屋間歩開発計画に対するものであった可能性が指摘されている。

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毛利氏の時代

 「銀山旧記」では天正年中に石見銀山に来住したとされる安原知種だが、一次史料でその名が現れる最初は、天正十六年(1588)九月吉日の備中国吉備津宮廻廊棟札とされる。この棟札には廻廊一間の檀主として「安原田兵衛尉」の名が記されている。

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 これに次ぐのが文禄二年(1593)の備中国都宇郡早島庄御崎神社(鶴崎神社)の棟札で、願主として「塩津村安原田兵衛」の名前が記載されている*2(『備中誌』上巻)。これらにより、安原知種がかつて田兵衛尉を名乗り、備中国早島庄塩津(岡山県早島町塩津)の出身であったことが分かる。

 慶長四年(1599)には石見銀山内の清水寺の本堂建立に関わっている。同年九月二日付の清水寺本堂棟札には、施主として「安原田兵衛尉草壁朝臣知種」とともに、「同孫十郎徳忠同清吉」の名がある。知種が弟の徳忠、一族と思しき清吉とともに石見銀山に来住していたこと、この頃には本堂を建立できるほどの資金力を有していたことを知ることができる*3

 なお慶長四年(1599)は毛利氏が石見銀山を支配していた時期であり、同棟札にも「大檀那大江朝臣輝元卿」(毛利輝元)とある。安原知種が毛利氏のもとで、銀山の経営に携わっていたこともうかがえる*4

備中国との繋がり

 慶長五年(1600)の関ケ原合戦により石見銀山の支配は徳川氏に移る。慶長八年(1603)六月一日、知種は備中国吉備津宮に銀製の御幣一本を寄進している。

 御幣の朱書銘には「施主当国山南早島塩津村住人安原田兵衛尉草壁朝臣知種」とあり、「大願成就」を祈念して奉納したことが記されている。前述のとおり同年八月一日に知種は徳川家康に謁見しており、「大願成就」とは石見銀山における成功を踏まえたものと推定される。

 慶長十七年(1612)九月吉日、備中国吉備津宮の御釜殿が再建される。その際の棟札に檀那として「生国当国早嶋住人今者石州銀山居住安原備中守草壁真人知種」の名がみえ、「備中守」を名乗っていることが知られる*5。また知種とともに弟の徳忠*6と、知種の子の直種*7も名を連ねている。

 その後も知種は寺社への寄進をつづけた。慶長十八年(1613)十二月には子の直種とともに備中国早島庄御崎神社の毘沙門堂を建立。翌慶長十九年(1614)十月にも同社遷宮の大檀那として主税頭(直種)、和泉守(徳忠)とともに棟札にみえる(『備中誌』上巻)。

 安原知種は、元和二年(1617)七月の備中国吉備津宮正宮上葺棟札銘にも「旦那者当国早島住人今石州銀山居安原備中守」として記される*8。この時期においても、早島庄の「住人」で、石見銀山に「居」する人物と表記されていることから、本拠である備中国早島庄に基盤を確保したまま銀山に居住していたことがうかがえる。

死後

 安原知種は元和九年(1623)八月五日に死去した。石見銀山・本谷地区の安原谷には万延元年(1860)に再建された墓碑が残る。また知種の出身地である備中国早島庄には、寛永十二年(1635)に知種を顕彰する碑が建立された。

 知種死去から2年後の寛永二年(1625)、石見銀山清水寺の本堂が再建される。当時の棟札には大施主として知種の弟の「安原和泉守入道宗春」(徳忠)、および知種の子の主税助因繁(直種)*9、そして因繁の嫡男因祐と次男二郎の名が記載されている。

参考文献

釜屋間歩。安原知種が発見したと伝わる。

安原備中供養塔。知種の出身地である備中国早島庄にて寛永十二年に建立された。

早島の鶴崎神社(御崎神社)の社殿

徳川実紀 巻5−10 国立国会図書館デジタルコレクション

*1:貞享元年(1684)四月十四日に、安原十兵衛以下三人が幕府に提出した「乍恐謹而言上」との表題をもつ文書を指す。

*2:大檀那は児島住の「高畠市正貞政」。

*3:徳川実紀』には「銀山記」からの引用として、安原知種について「家は富を成し、召し使う家僕千余人に及べりといへり」と記されている。

*4:寛永二年(1625)清水寺棟札銘には、知種について「建立当堂寺院数宇、此外安芸厳島・備中吉備津宮等再興多端也」と記されており、安芸厳島神社との関りは毛利氏との関係を裏付けるものとされる。

*5:慶長八年八月に徳川家康から「備中守」を許されたことをで、知種が名乗りを田兵衛尉から備中守に変更していることが分かる。

*6:「安原和泉守草壁真人徳忠」とある。徳忠は慶長四年の清水寺棟札では孫十郎を名乗っているが、ここでは「和泉守」を名乗るようになっている。

*7:「安原主税佐草壁真人直種」と記されている。

*8:弟の和泉守徳忠、知種の「息」主税佐直種も名を連ねている。

*9:寛永二年清水寺棟札には、「安原先主主税助因繁」の叔父として「徳忠入道宗春」が記載されている。