戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

三宅 久重 みやけ ひさしげ

 石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。

石見銀山の三宅一族

 「浄心院姓名録」*1には、銀山昆布山の住人として「三宅壱岐守」の名がみえる。昆布山では同族とみられる三宅与衛門も、天正十九年(1591)十月十六日の紀年とともに記載されている。

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 江戸期の享保三年(1718)に作成された「厳島神社廻廊棟札写」*2によれば、天正十九年(1591)六月に「石州銀山住」の「三宅壱岐守久重」が安芸国厳島神社に廻廊を寄進しており (「大願寺文書」)、上記の昆布山の三宅壱岐守と同一人物とみられる。

 同史料には、前述の三宅与衛門も天正十七年(1589)九月に寄進を行ったことが記されている。ほかにも天正年間に「石州銀山住人 三宅三郎左衛門」(天正十年二月)、「石州迩摩郡銀山昆布山住 三宅弥三郎久吉」(天正十六年九月)ら銀山に住む三宅一族の名がある。

備中国出身の銀山住人

 久重ら石見銀山の三宅一族は備中国連島の出身であった可能性がある。「厳島神社廻廊棟札写」には、天正十五(1587)年九月に「石州銀山之住 連嶋大江三宅与左衛門尉」と「石州銀山之住 連嶋西浦之内有本孫兵衛尉」の名が見られ、備中国連島(現倉敷市)に本拠を持つ三宅氏・有本氏が石見銀山に居住していたことが分かる。

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 中世の連島は高梁川河口部の沖に浮かんでいた島であり、瀬戸内海交通の要衝だった。備中国新見荘など内陸部からの年貢輸送拠点であり、文安二年(1445)の『兵庫北関入舩納帳』には、多くの連島船が塩や米、材木、などを積載して兵庫に入港していたことが記されている。

 連島には西之浦・宮之浦・大浦・大江・茂浦など多数の港湾が存在し、これらを拠点に運輸・商業活動に携わる住人がいたと考えられている。前述の三宅氏や有本氏もそのような存在であったとみられ、西之浦には三宅氏総本家の墓と伝えられる善福寺五輪塔群が残されている。連島の三宅氏では、永正十三年(1516)に「公方様」の命令で琉球渡航中、薩摩国坊津において島津氏に殺害された三宅和泉守国秀が知られる。

 なお16世紀の石見銀山には三宅氏以外にも多数の備中国出身者が来住していた。「浄心院姓名録」には、年代が不明ながら「フキヤ与三左衛門 生国備中」*3、天文九年(1540)には「備中道阿弥三郎」の名が見られる。

 16世紀末から17世紀初頭にかけて間歩開発に成功し、名を残した安原知種備中国出身者だった。知種は銀山での成功の後も、生国である備中国の神社造営に関わっており、元和二年(1617)の備中国吉備津宮正宮上葺棟札銘には「旦那者当国早島住人今石州銀山居安原備中守」として記されている。

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参考文献

石見銀山の昆布谷地区の石垣跡

*1:正式名称は「高野山浄心院往古旦家過去帳姓名録」(「上野家文書」)。万延二年(1861)に配札に訪れた浄心院役僧が所持していた帳面を写し取り、さらに謄写を重ねたもの。現在知られているものは三冊の内の一冊であり、表紙には「昆布山 石銀 栃畑 本谷」という地名表記がある。銀山の他の地区である「大谷」「休谷」「下河原」については、他の二冊に記載されたものと考えられている。

*2:かつて安芸国嚴島神社の廻廊には、多額の寄進をした者を「廻廊一間檀那」と記した棟札が掲げられていた。

*3:「フキヤ」とは、銀製錬に関わる技術者を意味する可能性がある。一方で、大永二年(1522)大田南八幡宮(現大田市)経筒銘に「備中州河上郡穴田吹屋」という表記があることから、備中国川上郡吹屋(現高梁市)の地名がすでに成立していることが分かっており、その地名を冠した名字である可能性もあるとされる。