戦国日本の津々浦々 ライト版

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天逆鉾(御調八幡宮) あまのさかほこ

 御調八幡宮三原市八幡町宮内)に伝わる神宝。弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)頃のものと推定される青銅製の戈であり、御調八幡宮北方の鉾ヶ峰から出土したものとされる。

御調八幡宮の神宝

 御調八幡宮で神宝「天逆鉾」が収蔵されている木箱の蓋には、以下のように記されている。

逆鉾 寶永四丁亥天三月吉日/御調郡宮内村/八幡宮寶物之内/神宮寺現住宥仙代造焉

 宝永四年(1707)にはすでに「天逆鉾」と呼ばれて神社の宝物となっていたことが分かる。また寛政四年(1792)の「御調郡宮内村指出帳」には「ほこのうねト申名所 八幡宮宝物ほこ、此所へふり申ニ付、ほこのうねト申伝候」とある。さらに文政二年(1819)の「御調郡八幡之庄八幡宮記氏十ヶ村辻書留」には、戈の図とともに下記にようにある。

御神寶 天逆鉾 長 一尺ニ寸 厚サ 一歩 但、宇佐ヨリ此鉾止ル所御鎮座あらんと投給へハ今の鉾ヶ峰ニ止ム由申候

 「ほこのうね(鉾ヶ峰)」は御調八幡宮背後の山の北側中腹で、もと地蔵堂があった付近を指しているという。天逆鉾と呼ばれた銅製武器はこの地で出土し、御調八幡宮に収蔵されたと考えられる。

弥生時代中期の銅戈

 天逆鉾の全長は37cm。両刃のつけられた剣形の身と、身に斜行する内湾ぎみの関(まち)と短い方形の茎(なかご)からなっている。身の関に接するところには、紐で柄(え)が着装できるように方形の孔を二個穿っている。

 御調八幡宮の「天逆鉾」は、柄(え)に対して直角につけて用いる武器、すなわち戈であるとみなされている。御調八幡宮のものは中細形で他にあまり例がなく、北部九州で見られる銅戈に近い形態をしているとされる。

 ただし、茎(なかご)は小さく、峰(みね)は丸みをおび鋭さに欠けて実用性に乏く、儀器として用いられたものと考えられている。伴出遺物については明らかではないが、弥生時代中期(紀元前1世紀〜紀元1世紀)頃のものと推定されている。

参考文献

御調八幡宮に神宝「天逆鉾」として伝わった銅戈の複製
広島県立歴史民俗資料館にて撮影