石見国邇摩郡大家東郷の中心となった市場町。現在の大田市大代町大家地区。大家東郷を支配した国人大家氏の本拠地であり、同氏没落後は石見小笠原氏の支配を受けた。交通の要衝でもあり、邑智郡川本方面・大田市大田方面・邇摩郡温泉津方面・江津市方面、これら四者を結ぶ接点に位置していた。
大家荘と大家氏
中世の大家荘は、平安末・鎌倉期には、本郷東(大家東郷)、同西郷、温泉郷、祖式、福光、字福*1、佐摩、三久須、白杯、稲富*2、福原の各地域からなっていた(「益田家文書」)。南北朝期には、邑智郡三原郷も大家荘の中に組み込まれた(「荘厳寺文書」)。
大家荘の史料上の初見は『玉葉』安元二年(1176)十一月三日条であり、「今日頼輔朝臣給女院御領石見国大宅庄可知行之庁下文云々」とある。治承四年(1180)五月、皇嘉門院から九条良通に譲渡され、さらに暦仁元年(1238)十二月に九条良平から九条家の祈願寺である大山崎(京都府乙訓郡大山崎町)の成恩院に寄進された。成恩院を領家とする大家荘の荘園支配は鎌倉末期・南北朝期には終焉を迎えたが、以後も「大家荘」の荘園名は地域名称として長く残った。
鎌倉期、荘園領主(領家)から惣公文職に補任され、大家荘の現地支配を担っていたのが大家氏だった*3。一方で大家氏は鎌倉幕府の御家人でもあり、弘安六年(1283)六月十三日付関東下知状で「大家庄内東郷地頭職」を安堵されている(「長府毛利家文書」)。なお前述のように多数の郷村から構成される大家荘内には、大家氏以外にも周布氏や吉川氏、益田氏、久利氏など多数の地頭が存在していた。
大家氏の本拠地は大家東郷であったとみられ、関係史料によってみると飯谷・荻・七原・菰口などをその中に含み、現在の大田市大代町から大田市温泉津町の東部にかけての地域をその領域としていたと考えられている。南北朝期から室町期にかけて、大家氏はこの大家東郷を中心に次第に大家西郷や邑智郡三原郷など周辺地域に勢力を拡大させていく。
大家の寺社と小笠原氏の進出
大家氏が拠った大家東郷の中心地が、現在の大田市大代町大家地区だった。現在も四日市・上市・下市等の地名が残り、また狭い地域の中に多数の寺院・神社が密集している。明治二十二年(1889)作成の切図によれば、当時はさらに多くの寺社が存在していた。
このうち中世にまで遡ることが史料によって確認できる寺院は長安寺、宗通寺、浄土寺であり、神社では大宮八幡宮(石清水八幡宮)、蒔田社、厳島社がある。
大宮八幡宮は天文三年(1534)二月に大家兼公・薦口公種が大旦那となって造営された。ただし前述の明治期の切図には、「下市」の北側に「大宮」の地名があることなどから*4、かつて「大宮」の地に大家大宮八幡宮があり、それが天文三年に大家兼公らによって現在地に移転された可能性が指摘されている。
この社殿造営から11年後の天文十四年(1545)九月、八幡宮では拝殿の造営が行われる。しかし、この時に大旦那となったのは大家氏ではなく、大家南方の邑智郡河本郷を本拠とする国人石見小笠原氏当主の小笠原長徳であった。大家氏惣領家の動向は以後も史料上みえなくなっており、天文十三年(1544)頃までに没落してしまったと推定されている*5。
大家氏没落後、大家東郷に進出したのが前述の石見小笠原氏だった。大家方面の支配を担当したのは同氏重臣の小笠原長実であり、長実は大家代官らしき野田実家や八幡宮神主の須子宮内大夫らに祭礼等の指示を行っている。
また大家の宗通寺の本堂には「前惣持勅特賜長江六世当寺開山南嶺嶽大和尚禅師」とある位牌が収められているという。一方で石見小笠原氏の崇敬を集めた臨済宗長江寺(邑智郡川本町会下谷)の記録「長江寺歴住記」にも、「七世勅特賜智哲明了禅師南嶺林嶽大和尚」が大家本郷宗通寺を開創したと記されている。宗通寺が小笠原氏と関わりの深い長江寺住職によって開創されたことが分かる。
町と市場
天文十五年(1546)二月、小笠原長実は八幡宮神主須子宮内大夫と野田実家に対し、「おも田原」から「大かめ岩」に至るまでの柴草の領有と管理を、両名と「町中」に預けるとする主家の決定を伝えている(「大宮家文書」)。このことから、大家に「町」があり、「町中」と呼ばれる組織が存在していたことがうかがえる。
寛永九年(1632)の大宮八幡宮(石清水八幡宮)棟札には「七日市」の地名が記されており、宝暦五年(1755)の棟札には、「七日市」と「四日市」がみえる。17世紀初頭には大家に市場があったことが分かる。なお七日市は地名としては残されていないが、現在の上市・下市の辺りだったといわれる。
七日市・四日市いずれも成立時期は不明だが、戦国期には成立していた可能性があるという。この場合、中世の大家は、七日市・四日市という二つの市場を中核とする「町」であったとみなすことができる。
関連人物
参考文献















*1:大治元年(1126)六月十九日石見国司庁宣に、久利、仁満、天河内三ヶ郷の西の境として「宇福浜・小河寺」の名が見える。また現在の大田市仁摩町神子路地域に「宇福尻」「宇福曽根」等の小字名があり、この周辺を指したと推定されている。
*2:南北朝期以後の史料に波積郷としてみえる地域である可能性が指摘されている。
*3:寛元元年(1243)十一月、鎌倉幕府は大家荘惣公文職をめぐる争論に対して大家氏に安堵する旨の判決を下している。
*4:「大宮」の周りには「宮山」「宮ノ前」「境内」などのかなり広範囲にわたる地名がある。
*5:天文十三年(1544)七月、石見小笠原氏重臣の小笠原長実が大家氏中間の源衛門尉が抱えていた「大家惣領分五百前」と邇摩郡飯田の五百前の計1貫文を御湯立田として三原八幡宮(武明八幡宮)に寄進している。「大家惣領分」は大家氏惣領家の所有地を意味しているとみられ、この頃には既に大家氏が没落していたことがうかがえる。