戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

福光湊 ふくみつみなと

 石見国邇摩郡の福光川河口の港町。現在の大田市温泉津町福光字湊。邇摩郡福光郷の内にあり、同時代史料には「湊」としてみえる。16世紀後半、石見国人である周布氏や石見吉川氏が進出した。

周布氏の進出

 文明初年頃、那賀郡周布郷の国人領主周布和兼は幕府から邇摩郡で「福光三方」の知行を得た。この「福光三方」の知行は延徳二年(1490)、大永三年(1523)と周布氏代々に継承されていく(『萩藩閥閲録』巻121)。

 そして天文十年(1542)十月、周布武兼は「勲功之賞」として福光郷内の河下(本分ともいう)・湊の両所50貫を大内義隆から与えられている。ただし、この河下・湊と大永三年までみえる「福光三方」がどういう関係にあるのかは明確でない*1

  弘治二年(1556)九月、周布千寿丸(元兼)は毛利元就から福光郷内の本地50貫文、同郷上村内の18貫、邇摩郡内の井尻・福田両所60貫地、そして湊分25貫を与えられる(『萩藩閥閲録』巻121)。これには天文十年の大内氏からの宛行の再給付も含んでいたとみられる。

 さらに永禄元年(1558)、邇摩郡内において福光掃部助兼教先知行の100貫と同郡仁万200貫が、毛利元就・隆元父子から周布元兼に与えられている(『萩藩閥閲録』巻121)。仁万は石見銀山北方の港町でもあった。

 周布氏の本領は前述のように那賀郡周布郷であったが、本領から離れた石見東部の邇摩郡沿岸部にかなり大がかりな所領を獲得していることが分かる。周布氏は本領である周布郷の港町長浜(現在の浜田市西部)と邇摩郡の福光湊・仁万を結ぶ、独自の海上ルートがつくられていたことが想定されている。

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石見吉川氏の進出

 邇摩郡西郷津淵を本拠地*2とした国人領主石見吉川氏も、毛利氏の勢力拡大の中で福光湊に進出した。

 石見吉川氏と海運との関りは、まず弘治四年(1558)二月に確認できる。この時、吉川元春毛利元就の次男)が石見吉川氏当主の吉川経安に対し、石見小笠原氏との戦いが決着するまでの間、まず湯泉津勘過料50貫が与えられる予定であると伝えている(「石見吉川家文書」)。

 永禄二年(1559)八月、石見小笠原氏が毛利氏に降伏。毛利元就・同隆元および吉川元春は、吉川経安に邇摩郡西郷内の津淵村18貫、同郷内の福光美濃守跡60貫、大田下村10貫の地を給付している。弘治四年の約束をふまえたものであれば、代わって湯泉津勘過料50貫は解除されたとみられる。

 永禄四年(1561)十一月、毛利氏から離反した石見国那賀郡の有力国人福屋隆兼が、毛利方の福光要害(不言城)を攻撃。しかし吉川経安・都治隆行が竹内方督、三原因幡守(石見小笠原氏家臣)らと籠城して抵抗し(「多田家文書」「麻生文書」「『萩藩閥閲録』巻146)、毛利元就が後ろ巻のため河本に出陣したことで福屋勢は撤退した。

 翌永禄五年(1562)三月、吉川経安は、吉浦(大田市温泉津町吉浦)の代所として、邇摩郡福光内本分20貫と同所湊25貫、同郡西郷内井尻村15貫および邑智郡日和内50貫の地を毛利元就・同隆元・吉川元春から与えられた(「石見吉川家文書」)。石見吉川氏は港湾部の吉浦の代替所領として、福光湊とその後背にある福光本分に進出したことが分かる。この頃、石見吉川氏の居城も福光城(不言城)に移ったとみられる。

 天正二年(1574)四月、吉川経安が子の経家に宛てた譲状にも西郷津淵や井尻村、福光本分などの所領とともに湊25貫がみえる。その後、天正九年(1581)二月に鳥取城の在番を命じられた吉川経家も、子の吉川亀寿丸(経実)に譲状を作成。湊25貫など天正二年と同様の所領が挙げられている。

温泉氏と松浦正重

 邇摩郡温泉郷の国人温泉氏も、福光湊を知行していた時期があった。弘治二年(1556)十月、温泉英永が被官の松浦源左衛門尉正重に対し、福光郷湊のうちで原田分塩湊三貫文を与えるとする宛行状を発給している(「松浦家文書」)*3

 この松浦正重は、弘治三年(1557)九月に出雲尼子氏から「当津」の「海陸諸役」を永久に免除することを約束されている(「松浦家文書」)。また永禄三年(1560)には、尼子氏の山吹城(銀山支配の重要拠点)への兵糧輸送でも活躍。船を用いた海上活動を行っていたことが知られる。

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福光湊の住人

 永禄五年(1562)三月、当時、石見小笠原氏の所領だった福光森村の検地帳が作成され、小笠原長正(小笠原氏の一族)に提出された(「福富家文書」)。

 この検地帳には「みなと礎居(いしつえ)」の清五郎、「みなとかちや」の彦太郎、同彦右衛門尉、「みなと立石」の二郎左衛門尉という、福光湊の住人とみられる人名が確認できる。彼ら4名は、それぞれ福光森村に複数の田を持っており、各人が「湊」に屋敷を所有していた。また「かちや」の地名から、福光湊に鍛冶が居た可能性がある。

関連人物

参考文献

湯泉津町福光字湊の風景

福光字湊の砂浜(福光海水浴場)

福光字湊の砂浜から見た沖の蛇島

瑞光寺・福光八幡宮への参道沿いの町並み

瑞光寺・福光八幡宮への参道沿いの町並み

福光八幡宮

福光川と福光城(不言城)跡

福光城の番所

福光城の井戸跡

福光城の三の丸跡

福光城の馬洗池

福光城の上の丸跡

福光城からの眺望

楞厳寺とその後背の福光城跡

楞厳寺にある吉川経家の供養塔

楞厳寺の石塔群

福光城三の丸から見た浄光寺

浄光寺にある吉川経安とその妻の墓所

*1:何らかの理由で没収されてい た「福光三方」が、河下・湊として改めて与えられた可能性はある。

*2:永禄二年九月六日付で吉川経安に宛てられた吉川元春安堵状に、「邇摩郡西郷之内御本地津淵拾八貫足」とみえる(「石見吉川家文書」)。

*3:年未詳六月、温泉英永が松浦源左衛門尉に対し、大嶋と福光で「鉄銃」を敵に射掛けて戦ったことを「高名無比」と賞していることからも(「松浦家文書」)、実際に温泉氏が福光郷に進出していたことがうかがえる。