戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

2022-12-01から1ヶ月間の記事一覧

江良 愛童 えら あいどう

毛利家臣。江良賢宣の子。愛童は幼名で実名は不明。父の討死後、幼くして跡を継いだ。天正年間にみえる毛利家臣・江良弾正忠と同一人物と考えられている。白井晴胤に嫁いだ姉妹がいる。

江良 賢宣 えら かたのぶ

陶氏被官。官途名は弾正忠。陶晴賢に仕えて廿日市支配を担当。毛利氏の周防侵攻に際しては、都濃郡須々万沼城で頑強に抵抗し、降伏後は毛利氏の防長経略に協力して活躍した。少なくとも二人の子がおり、一人は嫡男の愛童(実名不明)、もう一人は息女で白井…

新里 隆溢 にいざと たかみつ

大内家臣。厳島神領衆。官途名は若狭守。新里若狭守の子か。大内氏の赤間関支配を担い、後に安芸国佐西郡支配に関与した。

江良 藤兵衛尉 えら とうひょうえのじょう

陶氏被官。陶興房に仕えた。永正八年(1511)八月の船岡山合戦で活躍し、周防国都濃郡須々万に所領を得た。益田氏への使者も務めていることから、興房の側近であったと考えられる。

江良 主水正 えら もんどのじょう

陶氏被官。弘治二年(1556)四月、須々万沼城の戦いで討死した。実名は不明だが、天保四年(1833)に正司考祺が著した『豹皮録』には「江良主水隆綱」とみえる。

江良 昌泰 えら まさやす

陶氏被官。官途名は但馬守。陶興房の嫡子・興昌の偏諱を受けたとみられる。興昌死後は、興房の跡を継いだ隆房に仕え、奉行人として安芸国や周防国の支配に関わった。

南蛮酒 なんばんしゅ

南蛮(東南アジア)で製造された酒。琉球王国はシャム王国やマラッカ王国との貿易の中で、椰子などを原料とする酒を積極的に輸入していた。輸入された南蛮酒の一部は朝鮮や日本にも再輸出されていったとみられる。

琉球焼酒 りゅうきゅうしょうしゅ

琉球で製造された蒸留酒。1713年(正徳三年)成立の『琉球国由来記』では「米・粟・稷・麦を以って作る」とする。16世紀後半以降、琉球から薩摩島津氏への進上品にみえるようになる。島津氏はこれを「アワモリ」と称して徳川将軍家などへの贈答品とし…

渡邊 宗覚 わたなべ そうかく

豊後大友氏に仕えた石火矢技術者。仮名は三郎太郎。子に三郎右衛門、茂右衛門。主家滅亡後、徳川家康に召し出され、石火矢の鋳造を行った。

豊後筒 ぶんごづつ

豊後国で製造された鉄炮。豊後国は刀剣の生産地としても知られ、鉄炮製造のための技術的・資源的な素地に優れていた。豊後大友氏は、永禄年間には将軍足利義輝から鉄炮複製を依頼されており、豊後での鉄炮製造がよく知られていたことがうかがえる。

石火矢(豊後) いしびや

戦国期の豊後国では石火矢が製造されていた。豊後を領国とする大友氏は、貿易を通じて倭寇やイエズス会(ポルトガル)勢力から石火矢技術を得たとみられる。大友氏滅亡後、その人材と技術は徳川家をはじめ各大名家に流出した。

大砲(オランダ) たいほう

オランダでは16世紀半ば以降、大砲への需要が急速に高まった。17世紀に入るとイギリスやドイツ、スウェーデン等から大砲を輸入する一方、自国でも鋳鉄砲および青銅砲の生産を開始。材料の中には、日本から輸入した銅があったともいわれる。

大砲(イギリス) たいほう

イギリスの大砲製造は15世紀末頃から始まり、国内の豊かな鉄鉱石資源を活かして鋳鉄砲の開発が進められた。その結果、16世紀半ば以降、ヨーロッパ各国に輸出するまでに大砲産業は成長する。17世紀初頭には、徳川家康もイギリス製大砲を買い付けている。

大石火矢 おおいしびや

戦国期、後装式の大砲である仏郎機砲は石火矢と呼ばれたが、17世紀初頭、オランダから移入された前装式の大型砲は「大石火矢」と呼ばれた。その大きさは従来の石火矢(仏郎機砲)と隔絶するものだった。ただし大型の仏郎機砲を指して「大石火矢」とする場…

石火矢 いしびや

戦国期、日本で使用された大砲。日本では「石火矢」と呼ばれた。一方で史料上には「小筒」「大筒」あるいは「大鉄炮」があり、これらの違いについては不明。ヨーロッパから伝来した仏郎機砲とみられるが、中国的な火炮や大型の火縄銃を意味している可能性も…

倭板 わばん

日本から輸出された木材。日宋貿易では日本からの主要な輸出品であった。入宋僧が寺院造営用の木材として南宋に送っており、また棺材としても需要が高かった。

那智天満 なち てんま

紀伊国那智川河口部の港町。周辺の集落群とともに熊野那智山の門前町、外港として栄えた。多くの御師などが屋敷を構え、商人(金融業者を含む)や職人の存在も確認できる。

末次 すえつぐ

出雲国宍道湖東岸の港町。白潟の対岸にあり、亀田山(現在の城山)南方の砂州上に形成されていたと推測されている。永禄年間の毛利氏侵攻以前から町場が形成されていた。江戸初期、堀尾氏により建設された松江城下町に取り込まれた。