戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

南蛮酒 なんばんしゅ

 南蛮(東南アジア)で製造された酒。琉球王国シャム王国マラッカ王国との貿易の中で、椰子などを原料とする酒を積極的に輸入していた。輸入された南蛮酒の一部は朝鮮や日本にも再輸出されていったとみられる。

琉球の南蛮酒

 1477年(文明九年)、朝鮮・済州島の漂流民が琉球で「南蛮国酒」に出会っている。彼らの証言によれば「南蛮国酒、色黄、味如焼酒、基猛烈、飲数鐘、則大酒」(色は黄で、味は焼酒(焼酎)に似ており、非常にきつく、数杯飲むと酔っ払ってしまう)だったという。1479年(文明十一年)にも、暴風で琉球に漂着した朝鮮民が琉球国王から「南蛮国薬酒」を振舞われた記事がみえる(『成宗実録』)。

 琉球における「南蛮酒」とは、どのような酒であったか。1534年(天文三年)に琉球を訪れた陳侃は「南蛮酒は則ち暹羅より出ず。醸すこと中国の露酒の如し」と記している(『使琉球録』)。

 南蛮酒は暹羅(現在のタイ国あたりにあったシャム王国)から輸入されたものだったらしい。また、露酒とは発酵原酒または蒸留酒に香草・果実・薬草などを入れて造る薬酒とされる。

暹羅から琉球に渡った酒

 シャム王国から輸入された酒類については、琉球王国の外交文書『歴代宝案』に記録が残る。

 1480・81年(文明十二年・十三年)、シャム王国やその臣下が琉球王国に贈った礼物には、「香花酒」「香花紅酒・白酒」「蜜林檎紅酒・白酒」などが含まれていた。また「香花酒」に「内に椰子有り」と注記するものもある。

 中国明朝の李時珍が著した『本草綱目』には、暹羅酒(シャム王国の酒)について以下のように記されている。

暹羅酒、以焼酒、復焼二次、入珍寳異香、其壇毎個以檀香十数斤、焼煙薫令如漆、然後入酒、蝋封埋土中、二三年、絶去焼気、取出用之

 シャムの酒は、焼酒を二回蒸留し、珍宝を入れて香りをつける。それぞれ檀香十数斤をいぶすので、漆の様であるとしている。多くの香料が入っていたために「香花酒」の名称になったとする見方もある。『成宗実録』の「南蛮国薬酒」にも通じる。

 なお琉球浦添城跡からは、「香酒」と銘記された灰色の還元焔焼成の蓋と思われる部分が出土している。南蛮酒を入れる容器として持ち込まれた可能性が推定されている。

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椰子を原料とする酒

 一方で「内に椰子有り」とする注記は、「香花酒」が椰子などの果実を蒸留して作った蒸留酒であった可能性も含んでいる。

 1463年(寛正四年)に朝鮮に渡航した琉球使節は、「天竺酒」の製法を問われ、「桄榔樹の漿、焼きて酒と成す。その味香烈なり。二杯飲むと終日酔う。」と答えている。桄榔樹はサトウヤシを意味し、「桄榔酒」はサトウヤシの樹液を蒸留した酒を指すという。

 1467年(応仁元年)に朝鮮に派遣された琉球使節は、鸚鵡や胡椒、犀角、沈香などとともに天竺酒を献上。宴会では朝鮮国王・世祖も天竺酒を飲んだ。しかし後に世祖は「天竺酒個不如是」(天竺酒はこのようなモノではない)と宰相に述べたという。また1468年(応仁二年)七月、朝鮮では文官を集めた酒宴で、琉球王から贈られた天竺酒が振舞われたが、「其味苦烈人未易飲」(苦みが強烈で飲みにくい)と評されている。

 琉球使節が朝鮮に進上した酒は、やはり椰子を原料とした蒸留酒だったと推定される。世祖の言う通りであれば、椰子酒と天竺酒は別のものであり、琉球使節は天竺酒と偽ってシャム王国あたりから輸入した南蛮酒(椰子酒)を天竺酒と称して献上したことになる*1

 なお1431年(永享三年)、琉球は東南アジアの「三仏斉国」から「淡桮仙酒 四埕」を贈られている(『歴代宝案』)。三仏斉国の酒については、『諸蕃志』(13世紀)や『宋史』(14世紀)に「花酒、椰子酒、檳榔酒、蜜酒、皆非曲蘖所醞、飲之亦醉」との記述がみられる。醸造酒か蒸留酒かは不明だが、「淡桮仙酒」もまた椰子を原料とした酒であった可能性がある。

マラッカの酒

 1512年(永正九年)から1515年(永正十二年)の間、ポルトガルトメ・ピレスはマラッカに滞在していた。この間の事を記録した『東方諸国記』には、マラッカに来航するレキオス(琉球人)が酒を買い求めていた記述がみえる。

レキオスたちの間では、マラッカ産の酒がたいへん珍重される。彼らはアグアルデンテのような酒を大量に積荷する。

 アグアルデンテ agoa ardente とは、精度の高い醸造酒を原料とする、アルコール度数40〜65%の蒸留酒であるという。製法としては、ブドウ酒を蒸留する場合と、糖分の多い果実やサトウキビなどで造った発酵原酒を蒸留する場合があり、原料に応じて特有の風味と香りがあるとされる。

 琉球船がマラッカから輸入した「アグアルデンテのような酒」も、上述の「南蛮酒」「香花酒」「天竺酒」に類似した、椰子などを原料とする蒸留酒か、蒸留酒に熱帯果実や椰子の実を漬けた果実酒であったと考えられている。

日本に渡った南蛮酒

 応永十七年(1410)、薩摩・大隈・日向の守護となった島津元久が上洛する。この時、将軍足利義持への進上物に、南洋砂糖や毛氈、麝香などとともに「南蛮酒」がみえる(「旧記雑録」)。琉球との交易により入手したのかもしれない。

 また文正元年(1466)には、琉球国正使・芥隠西堂が「大軸」*2と「南蕃酒小樽」を、蔭涼軒主・季瓊真蘂に贈っている(『蔭涼軒日録』)。

 このように南九州や京都には、琉球王国を経由して南蛮酒がもたらされていたとみられる。

参考文献

  • 豊川哲也 「中世から近代における琉球・沖縄の酒について」(『沖縄県工業技術センター研究報告 第20号』 2017)
  • 中島楽章 「マラッカの琉球人(二)」(『大航海時代の海域アジアと琉球ーレキオスを求めてー』 思文閣出版 2020)
  • 萩尾俊章 「沖縄における神酒と泡盛の諸相」(『沖縄県立博物館紀要18』 2022)
  • 東恩納寛惇 『黎明期の海外交通史』 帝国教育会出版部 1941

大日本史料 第8編之11 成宗大王実録 (国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:一方、世祖の思い違いで、そもそも天竺酒=椰子酒であった可能性もある。

*2:明朝から琉球国王に贈られた画軸であったが、要望に応えて持ってきたのだという(『蔭涼軒日録』)。