戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

浦添 うらそえ

 琉球中山王国の王都。沖縄本島の南部、現在の沖縄県浦添市に位置する浦添グスクとその城下からなる。その語源は「うらおそい(浦襲)」で、浦々を支配する所の意という。

英祖王代の浦添

 17世紀中頃に成立した琉球王国の正史『中山世鑑』によれば、琉球王国源為朝の子・舜天によって1187年(文治三年)に建国されたという。実在が認められる最初の王・英祖、および初めて明朝に通交した察度は、いずれも浦添から身を起こしたとされる。

 英祖は、咸惇年間(1265〜74)にヤマトから渡来した補陀落僧・禅鑑のために、浦添城下に極楽寺を建立して仏教に帰依したという(『琉球国由来記』)。また浦添城西北隅の城壁下にある墓地「浦添ようどれ」は、13世紀には造営が始まっていたことが判明している。

 英祖王統の時代の13世紀末から14世紀初め、浦添グスクからは野面積みの石垣遺構が発見されている。

中山王察度の対外通交

 『中山世鑑』は、英祖王統四代の玉城王の時に、琉球王国は中山、山南、山北に分裂したとする。中でも浦添を本拠とし、沖縄本島中部地方(北は読谷村うるま市から南は那覇市南風原町南城市あたりまで)を支配する中山国が強勢であった。

 1368年(応安元年)、中国で明朝が成立。1372年(応安五年)、明朝からの使者・楊戴が中山王察度のもとを訪れた*1。察度は楊戴の招きに応じて弟の泰期を明朝に派遣し、外交文書と特産品を献上した。明朝の皇帝・洪武帝からは、大統暦と織金文綺、沙羅各5匹が賜与された(『明実録』)。

 中山国は以後、1403年(応永十年)までの間に明朝へ32回、高麗・朝鮮へは6回遣使している。当時の明朝は、倭寇対策のために海禁政策を実施していた。このため、海外産品を入手するための窓口として琉球を位置づけていたともいわれる。

中山王国の貿易

 1374年(応安七年)、中山国へ赴いた明朝の使者・李浩は、「文綺百匹、沙羅各五十匹、陶器六万九千五百事、鉄釜九百九十口を以て、其の国に就き馬を市(買)はしめ」、2年後に「馬四十匹、硫黄五千斤」を買って帰国している(『明実録』)。

 硫黄*2と馬*3は、モンゴルとの戦争を続けていた明朝にとって不可欠な軍需物資だった。一方で鉄鉱石を産しない琉球にとって鉄製品は重要な輸入物資だった。また中国の陶磁器は、12世紀から17世紀初頭の古琉球期を通じて常に輸入品の中心を占めた。

 明朝とモンゴルの戦争が一段落すると、中山国の輸出品に変化があらわれる。1390年(明徳元年)、中山王国の使者は察度王からの「馬二十六匹、硫黄四千斤、胡椒五百斤、蘇木三百斤」と王子武寧からの「馬一十匹、硫黄二千斤、胡椒二百斤、蘇木三百斤」を進貢した。通事の屋之結(うつち)も「胡椒三百余斤、乳香十斤」を進めた(『明実録』)。

 馬と硫黄に加えて、胡椒、蘇木*4、乳香が新たに登場した。これらは琉球産ではなく、東南アジア海域の特産品とみられる。

 高麗に対しては、1389年(康応元年)に硫黄と蘇木、胡椒、そして「甲(よろい)二十部」を献じている(『高麗史』)。甲は日本のものと推定されので、朝鮮に対する貿易も、東南アジアや日本の産物を中継するものだったことが分かる。

 東南アジアでは、シャム(現在のタイ)との通交が早かった。1425年(応永三十二年)に中山王尚巴志が「暹羅(シャム)国」に送った咨文に、「曾祖(察度)及び祖王(武寧)、先父王(思紹)より今に至るまで、逓年累ねて使者を遣わし」と記されている。シャムから琉球にも船が来ており、1404年(応永十一年)にシャム船が福建の海岸に漂着した際に「暹羅は使を遣し琉球と通交す」と言われたという(『明実録』)。

察度の時代の浦添

 察度の時代にあたる14世紀〜15世紀初期、浦添グスクでは大規模な切石積みの城普請が行われ、その縄張りも拡大された。この時期には、「高麗瓦」や「大天瓦」などの瓦葺き建物が建てられた。

 浦添グスクの範囲は4万平方メートルを越え、この時期では琉球最大の城郭であることが明らかになっている。その構造は石積み城郭を中心部とし、その外側に物見状郭があり、さらに堀切、掘、柵列などの施設がめぐらされていた。

 浦添グスクの城下では、グスク北側の斜面に極楽寺跡が推定されている。西側のふもとには、魚小堀(イユグムイ)と呼ばれた大きな池があり、この池近くに世持井(ユームチガー)があった。

 琉球における王都の原型は浦添において形成され、次の王都となる首里に受け継がれたとする見解もある。

首里への遷都

 14世紀末、沖縄本島南部の佐敷から台頭した尚巴志は、1406年(応永十三年)頃に察度王統を滅ぼして中山王となった。さらに1420年代までに残る山北国、山南国を滅ぼして琉球を統一。尚巴志は王都を首里に移し、新たな王城として首里城を整備した。

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 遷都後の浦添グスクは荒廃した。1524年(大永四年)、尚真王の長子・尚維衡が王の怒りを買い、浦添グスクに追放された。その時の浦添グスクは「城毀壊し、宮殿荒蕪して、瓦廃れ垣崩れ、鞠りて荒野と為る」ような有様だった。そこで、尚維衡の義父・呉起良が「其の室屋を献じ、宮殿を助造」したという(『球陽』)。

尚寧王の整備

 16世紀末、尚栄王が嗣子のいないまま死去。このため娘婿で浦添を知行していた尚寧(浦添尚氏)が、王位を継いだ。首里に移り住んだ尚寧王は、1597年(慶長二年)に首里城浦添グスクの間を往還する道を石畳に整備した。なお浦添グスクの14世紀の堀切と郭の石積みは、石畳道造営の際に埋め立てられたと推定されている。

 道路工事の完成記念碑において、尚寧王は「そんとん(舜天)よりこのかた、二十四代の王のおくらゐ(位)をつ(継)ぎめしよわちへ(=なさって)、うらおそひ(浦添)よりしより(首里)にて(照)りあが(上)りめしよわちや」と紹介されている。浦添が、王権にとって聖地と位置付けられていることがうかがえる。

 しかし1609年(慶長十四年)、薩摩島津氏が琉球王国に侵攻。浦添グスクにあった浦添尚氏の居館も焼き払われ、尚寧王は捕虜となって薩摩に連行された。尚寧王は帰国後の1617年(元和三年)に浦添グスクを改修し、1620年(元和六年)には「浦添ようどれ」を整備した。

参考文献

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浦添ようどれ(沖縄県浦添市) from 写真AC

*1:16世紀の地理学者・鄭若曾によれば、楊戴は日本からの帰途に琉球を訪れたという(『鄭開陽雑著』巻7「琉球図説」)。

*2:硫黄は沖縄島北方の硫黄鳥島で産し、火薬の原料となった。

*3:琉球土着の小型馬で、平坦物資の輸送用と考えられる。

*4:赤色の染料や巻物の軸木に用いられた。