戦国期、薩摩国には米を原料とする焼酎(焼酒・蒸留酒)が存在していた。16世紀に薩摩に滞在したポルトガル人の報告資料にみえる。薩摩国は焼酎を作っていた中国や琉球と交流があり、そこから生産技術が移入された可能性がある。
ポルトガル人の見た焼酎
天文十五年(1546)春または初夏頃、ポルトガル人ジョルジェ・アルヴァレスは日本に来航し、薩摩の山川に初冬頃まで滞在した。アルヴァレスが翌年に執筆した『日本報告』には以下の記述がある。
飲物として、米からつくるオラーカ(orraqua)および身分の上下を問わず皆が飲むものがある。そこで私は正体を失った酔っぱらいを一人も見なかった。それは、彼らが酔うと直ぐに横になり寝てしまうからである。
この地には多数の居酒屋や旅籠があり、そこでは飲食物や宿泊が提供されている。
オラーカ(orraqua)はアラックとも呼ばれる蒸留酒の一種であり、中国や東南アジア、インドなどで知られていた。日本では「荒木酒」「阿刺吉酒」などとして史料にみえる。
アルヴァレスの記述から、薩摩山川に米を原料とした蒸留酒(焼酎)があったことが分かる。またオラーカとは別に「上下を問わず皆が飲むもの」があったとされることから、焼酎が貴重なものであったことがうかがえる。
焼酎を飲ませろ
永禄二年(1559)、薩摩国北部にある大口郡山八幡神社(鹿児島県大口市)の社殿造営が行われた。その時の棟札に、八月十一日の日付入りで大工と思われる鶴田助太郎と作次郎の落書きが残されている。
其時座主は大キナこすてをちやりて、一度も焼酎を不被下候。何共めいわくな事哉
(座主は大変なケチであり、一度も焼酎を振舞ってくれなかった。何とも困ったことだ。)
アルヴァレスの報告と同じく、焼酎が貴重なものだったことがうかがえる。一方で、社殿造営の際などに身分の高い者から振舞われることが期待される程度には、広く知られた酒であったことも分かる。
薩摩の「泡盛」
ただし、上記の焼酎は薩摩国内で作られたものかは不明。
少なくとも16世紀後半には琉球王国から島津氏に焼酒が贈られており、琉球から同国あるいは東南アジア、中国で作られた焼酎が薩摩国内に入っていた可能性もある。また薩摩および大隈の勢力は中国の密貿易業者(後期倭寇)との交流があり、彼らから中国の焼酎を入手することがあったかもしれない。
それでも江戸期には、薩摩で焼酎生産が行われていたことが分かる。
元禄十年(1697)刊行の本草書『本朝食鑑』には、薩摩に「泡盛」という焼酒であったことが記されている。
焼酒に最も澄清濃芳味逾ゝ辛烈なる者の俗に泡盛と称す。(中略)、泡盛は薩侯の家に多く出づ者を勝と為す。国主之を獻し之を餵る。又た火の酒という者の有り。前に出づ肥侯の家に其の辛烈燥猛亦泡盛よりも甚だし。(中略)薩之士民家多く泡盛を造りて而して常に之を飲する者の数十杯。
つまり澄んで濃い匂いの味わいが辛烈な焼酎を泡盛といい、泡盛は薩摩で造られるものが勝っている。薩摩の土民は泡盛を多く作り常に之を多量に飲んでいる、と。
また正徳二年(1712)刊行の『和漢三才図会』では、焼酒の項で以下のような記述があり、琉球と薩摩で「泡盛」という焼酎を製造しているとしている。
なお「駿府記」には慶長十七年(1612)十二月二十六日、島津陸奥守(家久)が将軍に「焼酒二壷琉球酒 砂糖五桶」を献じた記事がみえ、「焼酒」に「アハモリ」とルビがふられている。
薩摩に「アワモリ」と呼ばれる焼酎があったことから、薩摩島津氏は将軍家等に献上する琉球の焼酒を、自国の焼酎と同じ「アワモリ」と呼んでいた可能性がある*1。