戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ペシュト Pest

 ハンガリー中央部のドナウ川東岸の都市。13世紀に作られた対岸の新都市「ブダ」と並立し、ハンガリー王国の主要都市の一つとして存在した。19世紀、北方の都市オーブダおよびドナウ川対岸の都市ブダと合併し、「ブダペシュト(ブダペスト)」となった。

コントラ・アクインクム

 ローマ時代、ペシュトには「コントラ・アクインクム」(対岸のアクインクム)という要塞ができていた。現在のペシュトの「三月十五日広場」のあたりにあって、塔と城壁を持っていたという。また現在、ペシュト教区教会が建っているところに、キリスト教の教会堂が建っていた。

 このコントラ・アクインクムは4、5世紀に荒廃したが、9世紀にマジャル人が侵入してここに定住した。10世紀初頭にマジャル人の大首長となったアールパードの時代、ローマ期の城壁内に城が作られ、ローマ時代の教会堂を利用して、ペシュト市内区教区教会の祖先にあたる教会が建てられた。

 955年(天暦九年)、アウグスブルクの戦いでアールパード朝*1神聖ローマ皇帝オットー1世の軍に敗北。マジャル人は、西からの攻撃に備え、首長の拠点をドナウ川の東岸(左岸)に置くようになり、東岸の地勢的重要性が増大していった。

ペシュトの誕生

 1061年(康平四年)、「ペシュト」という名前が修道院の記録に出ているという。10〜11世紀の史料によると、ドナウ川の渡しを「ペシュトの渡し(レーフ)」と呼んでいたことが分かる。そのときは、東岸の「コントラ・アクインクム」のあとの城とその対岸の両方をペシュトと呼んでいたらしい。その後、11世紀中には、東岸の町だけがペシュトと呼ばれ、西岸はキシュペシュト(小ペシュト)と呼ばれるようになった。

 11世紀、ペシュトにはハンガリー王イシュトヴァーンによって、聖母マリア教区教会が作られた*2。13世紀までには、ペシュトの城内に王宮が作られ、すぐ外に市場が設けられ、その周りには商人や渡し業者や漁民や農民が住んだ。漁業のほかに、穀物生産と葡萄栽培が行われていたことが知られている。また少し離れて「家畜市場」もあったという。

 ペシュトには、王宮と聖母マリア教区教会を核とする地区のほかに、さらに二つの中心があった。一つは王宮のやや北に位置する「ベーチ(ウィーンの意)」あるいは「ウーイベーチ(新しいウィーンの意味)」という地区。もう一つは南方にあった地区で、アールパード家の王女、聖エルジェーベトにちなんで聖エルジェーベト村と呼ばれていた。

 ペシュトには、13世紀初めからオーストリアバイエルン出身のドイツ系住民が多数入ってきていた。彼らは市の公文書に用いる「印章」を作った。この頃から市壁の建設がはじめられ、1241(仁治二年)〜42年(仁治三年)のモンゴル襲来後に完成した。

モンゴル襲来後の復興

 モンゴル軍に破壊された後、ドナウ川東岸のペシュト住民の多くは対岸にある丘などに移り住んだという。一方で復興も行われており、まだ石造ではないものの、13世紀の初めから始まっていた市壁建設も進んだ。これにより、聖母マリア教区教会を中心として王宮、市役所を内包するペシュトの核となる地区が完成した。

 1250年〜60年の間に、フランチェスコ派の教会と修道院が建てられた*3。ただし、同派の教会は市区内には認められず、市門のすぐ外に作られた。1390年(明徳元年)のアンドラーシュ3世の即位にあたって、ここで盛大なミサが行われたという。

 また聖エルジェーベト村にあったドミニコ派修道院の再建もなされた。東の門の外に配置された家畜市場も復興し、ハンガリー大平原の家畜は、ここを経てドナウ川を越えたとされる。

都市特権の獲得

 1244年(還元二年)、ベーラ4世はペシュトの住民に特権を与え、国内の関税免除、ぶどう税免除、所領購入の自由、司祭選出権、市長(ファルナジ)選出権、司法権、舟の停泊・市の開設権などを認めた。これはドイツの都市の例に倣ったものといわれる。この権利はすぐに対岸のキシュペシュトにも適用された。

 この都市特権とは別に、1286年(弘安九年)以来、代々の国王はペシュトにおいて聖俗貴族の代表者を集めた「集会」を開くようになった。それは、身分制議会の萌芽にあたるもので、当初は市外のラーコシ草地で開かれていた。

ブダの従属都市

 モンゴル襲来後、ベーラ4世はペシュト対岸のドナウ川西岸の丘に、都市と王城の建設を開始。この都市は後に「ブダ」と呼ばれ、ドナウ川上流にあった以前のブダは「オーブダ(古いブダ)」と呼ばれるようになった。新しいブダは急速に発展し、15世紀にはハンガリー国王はブダを居城とするようになっており、王国の首都というべき重要性を帯びるようになっていた。

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 一方でペシュトの発展は遅れ、ブダの従属的立場に置かれていたらしい。1406年(応永十三年)、ハンガリー王ジグモンドはペシュトに対し、ブダの行政下から独立する勅令を出し、ウーイベーチに王城を建てようとしている。

 1413年(応永二十年)、市政を司る「判事」(ビーロー)を選出することが認められているが、それも実際には選出ではなくブダが任命していたという。市参事会員の数も、ブダの場合は12名であったのに、ペシュトの場合、はじめは4名であり、1443年(嘉吉三年)になってようやく6名になった。

 ペシュトでは指導層にも変化があった。14世紀中頃までペシュトの指導層はドイツ系住民であったが、15世紀の初めからハンガリー系住民が多くなり、参事会の10パーセントあまりがドイツ系住民であるにすぎなくなった。また15世紀中頃までに商人の比率が増大し、その多くは家畜商人であったという。

マーチャーシュ1世の時代

 1458年(長禄二年)にハンガリー王に即位したマーチャーシュ1世の時代、ペシュトは発展をみた。1469年(文明元年)、参事会員の選出人数が6人から12人に増加し、ブダに追いついた。16世紀初頭までにはブダと同じ「王国自由都市」となり、租税以外の広汎な自治権を獲得した。

 同王の時代、ペシュトには全国的な市を開催する権利が与えられた。ブダは特権を活かして外国の品々を交易したが、ペシュトは国内の商品を扱った。広大なハンガリー大平原から集まってくる馬、牛、ワイン、干し草、小麦などが交易の対象となった。

 またこの時期、市壁が石で作られるようになり、範囲も外側に拡大した。これまで市壁の外にあったウーイベーチ地区や聖エルジェーベト村は、新たに市内に含まれることになった。その結果、ペシュトの市内区はそれまでの2倍の面積となった。

 市壁には3つの門ができた。ドナウ川上流の司教座の町ヴァーツへ至るヴァーツ門、東方の司教座の町エゲルへ至るエゲル門(ハトヴァン門)、そして南の農業中心地であるケチケメートへ向かうケチケメート門(ツェグレード門)であり、それぞれの門には門衛が立って、通行税を取り立てた。市の壁の拡大に伴って、家畜市場はラーコシ草地に移った。

 市内の建物の改築、増築も行われた。ペシュトの中心であった聖母マリア教区教会は、さらに荘厳なものに改築され、マーチャーシュ1世の死後にはルネサンス様式が加えられた。フランチェスコ教会と修道院も拡大されて、身分制議会が開かれている時には、王や議員が泊まれるようになった。市内の中心通りであるヴァーツ通りやケチケメート通りでは、その両側に裕福な「市民」の家々が立ち並んだという。

オスマン帝国の侵攻

 1526年(大永六年)8月29日、ハンガリー南部のドナウ川沿いにあるモハーチ村近郊でオスマン帝国ハンガリー王国の軍勢が戦い、ハンガリー軍が壊滅。国王ラヨシュ2世も死亡した。9月、オスマン帝国皇帝スレイマン1世がブダに入り、ペシュトはオスマン帝国軍の放火により、大きな火災に遭ったという。

 その後、空位となったハンガリー国王の継承をめぐりトランシルヴァニア公サポヤイ・ヤノーシュとハプスブルク家のフェルディナント大公が抗争。スレイマン1世はサポヤイを支援していたが、1540年(天文九年)にサポヤイが没し、1541年(天文十年)にフェルディナント派がブダをおさえると、同年8月29日にブダを攻略してさんざんに破壊し、オスマン帝国支配下に置いた。

 1541年(天文十年)以後、ハンガリーは三分割され、ブダ、ペシュトを含む中央部はオスマン帝国の直轄領となった。トランシルヴァニアオスマン帝国保護国となり、ハプスブルク家が継承したハンガリー王国がポジョニ(ブラディスラヴァ)を首都として北部に残った。

オスマン帝国の支配

 1526年(大永六年)9月、上述のようにペシュトはオスマン帝国軍の放火で大きな被害があったが、その後急速に復興。要塞となった市壁で囲まれた半円形の都市となった。

 オスマン帝国の支配者は、ペシュトの教会をモスクに改造した。これまでペシュトの中心であった聖母マリア教区教会もモスクに一時改造された。ただし、同教会はすぐにペシュトにおいて唯一認められたキリスト教会として活動することを許されることになった。

 フランチェスコ教会は、オスマンのペシュト侵入時にいったん焼失したが、1537年(天文六年)に再建された後に、1541年(天文十年)にはシナーン・ベグ・モスクとして改造された。この時期のモスクとしては、聖ミクローシュ教会のあとのフェルハート・ベイ・モスクや、ビュラク・モスク(大モスク)、ウラマ・パシャ・モスクなどが知られている。

 オスマン帝国支配下では、通りや広場の構造は変わらず、名称もほぼ維持された。一方でブダと異なり、ペシュトでは建設がほとんど行われず、貧しい町となっていった。

 ペシュトにはパシャ(オスマン帝国高官の称号)は住まず、必要に応じてブダからやってきた。比較的高位のオスマン帝国の役人でペシュトに住んでいたのは財政担当デフテルダールのみであったという。

 オスマン帝国の支配は、1686年(貞享三年)9月にハプスブルク帝国および神聖ローマ帝国の軍勢がブダを攻略するまで続いた。しかしこの時の包囲戦でブダとペシュトは大きな破壊を受け、その後の復興もハプスブルク帝国に対するハンガリー国内勢力の「解放戦争」により遅れた。

 以後、両都市はハプスブルク帝国の一都市として、復興と発展を進めることになる。

参考文献

  • 南塚信吾 『ブダペシュト史―都市の夢』 現代思潮新社 2007

ブダペストの眺め ヨリス・ヘフナーゲル 1617 - 1618
アムステルダム国立美術館  https://www.rijksmuseum.nl/nl/rijksstudio

ハンガリー 聖イシュトヴァーン大聖堂 from 写真AC

*1:アールパードを祖とするマジャル人の王朝

*2:ブダペシュトに現存する最古の教会という。

*3:13世紀、フランチェスコ派の道士がハンガリーにも入っていたらしく、国王ベーラ4世もその信者であったという。