戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

琉球焼酒 りゅうきゅうしょうしゅ

 琉球で製造された蒸留酒。1713年(正徳三年)成立の『琉球国由来記』では「米・粟・稷・麦を以って作る」とする。16世紀後半以降、琉球から薩摩島津氏への進上品にみえるようになる。島津氏はこれを「アワモリ」と称して徳川将軍家などへの贈答品として用いた。

琉球焼酒の起源

 1713年(正徳三年)成立の『琉球国由来記』には、下記のような記述がある。

焼酎、当国、其濫觴、洪武ノ初、中華ニ通ズ。此時伝授シ来テ、制之與

 これによれば、琉球焼酒は明朝初期に中国から伝わった。少なくとも当初は、中国系の技術で蒸留酒製造を開始したと推定される。1606年(慶長十一年)の明朝の冊封使である夏子陽は「焼酒は中国と同様に醸す。ただしその気は倍も激しい」と述べている(「使琉球録」)。

 一方で、暹羅(シャム王国)の米を原料とする蒸留酒「ラオ・ロン」を源流と考える説もある。「ラオ・ロン」はシャム語で焼酒の意味であり、その香気や風味は泡盛と酷似するという。1534年(天文三年)に琉球を訪れた陳侃の記録にも「酒は清く而して烈、暹羅より来る。之麵(麦)と米で醸す」とする記述がみえる(「使琉球録」)。

 なお暹羅からは「香花酒」など、別系統とみられる酒も輸入されている。

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琉球王国からの進物

 永禄十二年(1569)の『琉球薩摩往復文書案』は、薩摩からの物品の発注に琉球国から納品した目録であるが、その中に「唐焼酎壱甕、老酒一甕、焼酎壱甕」とある。唐焼酎とは別に、わざわざ「焼酎」と記していることから、これが琉球で製造された焼酎であったことがうかがえる。16世紀中頃には、琉球蒸留酒製造が行われていたとみられる。

 島津氏の重臣・上井覚兼が記した『上井覚兼日記』によれば、天正十三年(1585)四月十日、琉球使節を迎えての饗宴が行われた。その際、「琉球より之御酒」がふるまわれ、その後、三味線による演奏と歌も催されている。

 同年五月八日には、「琉球国王御進物」として食籠や紅花、絹子、太平布などとともに「焼酒壺甕弐」が贈られている。島津義弘から「琉球焼酒」をふるまわれた覚兼は、これを「珎酒」として他の家臣とともに礼を言って賞味している。琉球焼酒は、薩摩においても希少だったのだろう。

琉球の名酒「アワモリ」

 17世紀初頭以降、島津氏は琉球焼酒を、将軍家や大名家などへの贈答品として用いている*1。この頃から「アワモリ」の呼称がみられるようになる。

 「駿府記」には慶長十七年(1612)十二月二十六日、島津陸奥守(家久)が将軍に「焼酒二壷琉球酒 砂糖五桶」を献じた記事がみえ、「焼酒」に「アハモリ」とルビがふられている。

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 また「梅津政景日記」の元和五年(1619)八月八日には、島津薩摩守から「御袴五つ」、「黒さたう五十斤入り拾桶」とともに「泡もりと申りうきう酒つほ壹つ」が贈られたことがみえる。

  金閣寺住職の鳳林承章の日記『隔蓂記』には、たびたびアワモリが登場するが、その表記は一定しない。寛永二十年(1643)九月五日条「名酒淡盛之酒小壺被恵之」、寛文三年(1663)十二月十二日条「自伊勢殿御局 為音信 葡萄酒壹壺、粟盛酒壹壺」、寛文四年(1664)九月二十六日条「赴金地院(崇後) 相対 令打談 菓子出 粟盛酒酌之」とある。

 現在のような「泡盛」の漢字表記がみえるのは寛文十三年(1673)で、『通航一覧』に「琉球国貢税之小船(中略)、泡盛酒三壺、(後略)」との記述がある。

琉球焼酒と「アワモリ」の関係

 しかし琉球側の文書では一貫して、「焼酎」「焼酒」が使われており、「アワモリ」の呼称はほぼみえないという。

 一方で元禄十年(1697)刊行の本草書『本朝食鑑』には、「泡盛」が薩摩の焼酒であったことが記されている。

焼酒に最も澄清濃芳味逾ゝ辛烈なる者の俗に泡盛と称す。(中略)、泡盛は薩侯の家に多く出づ者を勝と為す。

 『本朝食鑑』では、続いて琉球の酒について以下のように記している。

焼酒(中略)本邦泡盛火の酒*2荒気酒の之の類の如き、亦た琉球南蛮之酒に而本邦の之人に可なる不る

 さらに正徳二年(1712)刊行の『和漢三才図会』では、焼酒の項で以下のような記述があり、琉球も薩摩も泡盛を製造しているとしている。

阿蘭陀阿刺吉(アラキ)酒、琉球及薩摩之泡盛酒皆彼国焼酎

 上記のように17世紀後半から18世紀にかけて、泡盛を薩摩で造られると記述する文献と、泡盛琉球の産物であるとする文献が入り混じって現れる。これらのことから、薩摩島津氏が琉球焼酒を将軍家等に献上する際に、自国の焼酎と同じ「アワモリ」と呼称していた可能性が指摘されている。

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参考文献

  • 豊川哲也 「中世から近代における琉球・沖縄の酒について」(『沖縄県工業技術センター研究報告 第20号』 2017)
  • 東恩納寛惇 『黎明期の海外交通史』 帝国教育会出版部 1941
  • 東京大学史料編纂所・編 『大日本古記録 上井覚兼日記 中』 岩波書店 1955

倭漢三才図会 醸造 焼酒 (国立国会図書館デジタルコレクション)

*1:慶長十四年(1609)、島津氏は琉球に侵攻。同国に強い影響力を及ぼすようになる。寛永元年(1624)、島津氏は「他国へ不出物」を定めており、その一つに「焼酒之事」を挙げる。(『薩摩旧記雑録』)。島津氏は琉球焼酒を外交用の贈答品としており、その確保が目的だったと考えられている。

*2:『本朝食鑑』には「火の酒」について、「又た火の酒という者の有り。前に出づ肥侯の家に其の辛烈燥猛亦泡盛よりも甚し。」とある。