山原(ヤンバル)とよばれた沖縄本島北部を中心に、奄美諸島あたりまでを支配した山北国の中心地。山北滅亡後も中山国(琉球王国)から派遣される北山監守が、今帰仁城に駐屯した。沖縄本島北部、本部半島北岸部に位置する。
今帰仁城の城下集落
17世紀初頭まで今帰仁城周辺には、北に今帰仁ムラ、親泊ムラが、南に志慶真ムラがあり、城下集落を形成していた。今帰仁城北の沿岸付近の内陸部には「唐船田」(トウシンダー)や「唐船小堀」(トウシングムイ)などの船に関わる地名が残っており、かつて一帯が船の発着する入江であったことがうかがえる。
また親泊ムラの「親泊」(イェードゥメー)という地名も、「立派な港・大きな港」という意味を持っているという。「親泊」の地名は、慶長十四年(1609)の薩摩島津氏による琉球侵攻を記録した「喜安日記」にもみえる。
今帰仁城以前
今帰仁城の遺構における13世紀末頃の層(築城前から築城最初期にあたる)からは、早くも中国製陶磁器が現れている。今帰仁城築城以前から、この地域に中国との交流があったことが知られる。14世紀中期頃の層では、中国陶磁器はさらに増加し、高麗青磁もみつかっている。
北山国と明朝との交流
『明実録』によれば、今帰仁城に拠った山北王・怕尼芝(ハニジ)、珉(ミン)、攀安知(ハンアンジ)の三人が、永徳三年(1383)から応永二十二年(1415)までの間に、中国の明朝に対して19回の朝貢を行っている。山北王は貢物として方物のほかに、たびたび馬と硫黄を用いている。
今帰仁城遺構の14世紀後期から15世紀前期ごろの層からも、おびただしい量の中国陶磁器が出土している*1。朝貢貿易により、大量の中国製品が今帰仁および山北国にもたらされていたものと思われる。特にこの時期は、青磁酒会壺など大型品が大量に出土。首里城跡の出土状況も同じであることから、琉球の朝貢貿易を象徴する陶磁器類であるとされる。
さらに今帰仁城では四爪龍や三爪龍が描かれた景徳鎮窯青花龍文壺がみつかっている。皇帝用磁器として五爪龍文を用いる中国皇帝から、朝貢国に下賜された高級品であったことが推定されている。
北山国滅亡後
応永二十九年(1422)、北山国は中山国に滅ぼされる。以後、今帰仁城には首里から派遣された北山監守が入り、旧山北の山原を支配した。
今帰仁城遺構の15世紀中期から17世紀中期頃の層からは、中国製陶磁器に加えてタイ製陶磁器やベトナム製陶磁器 、そして備前焼なども出土するようになる。最盛期の琉球王国における、日本や中国、東南アジアとを結ぶ国際貿易の一端を今帰仁からもみることができる。