ベトナム中部、トゥーボン川河口の港町。紀元前から遺跡が形成され、13世紀ごろまでチャンパ王国のもとで栄えた。16世紀中ごろに広南阮氏の支配下となり、対外貿易港として発展。17世紀初頭には日本町も形成された。
サーフィン文化からチャンパ王国時代
考古学からみたホイアン地域の形成は、紀元前後ごろのサーフィン文化*1からはじまるとされる。
遺跡は、旧市街地からみると西郊に位置するトゥーボン川左岸の砂丘上に立地し、現在の河口から10キロメートルほど内陸にある。サーフィン文化の甕棺から出土した遺物のなかに中国の貨泉や五銖銭、中国鏡などがみられ、中国南部との交流がみとめられる。
この地域はチャンパ時代の9~10世紀ころまで遺跡が継続し、この時期にあらたに河口のバウダー地区に遺跡が形成され、12~13世紀までつづく。河口付近における遺跡形成の背景には、チャンパ王国の宋朝への朝貢貿易の活発化*2、それにともなう港の移動・拡大が考えられている。
ムスリム商人の海上交易ルート
ホイアン沖から東に20キロメートル離れた位置にあるクーラオチャム島は、9~10世紀にかけて、チャンパ王国の海上交易活動の拠点であったとされる。
ペルシア湾岸の港シーラーフの人アブー・ザイドが9世紀中頃に著した『シナ・インド物語』には、チャンパ王国は「サンフ」として登場。中国に向かう船は「スンドル・フーラート」に向かうこと、ここでは真水が得られることが記されており、これがクーラオチャム島に比定されている。9世紀からすでにムスリム商人の交易ネットワークにおける寄港地となっていたことが分かる。
『宋史』や『宋会要輯稿』などには、玻璃器のほか、玻璃に入った薔薇水、眼薬、白砂糖、味子、褊桃などが大食、注輦、于蘭、高昌、回鶻、層檀、三仏斉、占城から献上されたとある。占城はチャンパ王国であり、クーラオチャム島でのイスラーム・ガラスの出土は、ガラス器が海上ルートで中国に運ばれたことを示すものとされる。
また考古学調査により、クーラオチャム島では9世紀前後とみられる貼付装飾瓶などのガラス器やラスター彩碗などのイスラーム陶器が出土している。これらはシリアやエジプト、イラクなどで製作され、海上ルートを通じてチャンパ王国、そして中国にもたらされたと考えられている。
広南阮氏政権の成立と対外貿易
15世紀、ホイアン地域はチャンパ王国とベトナム北部の黎朝(大越)との抗争の舞台となる。そして1471年(文明三年)に王都ヴィジャヤの陥落によりチャンパ王国は衰退。ホイアン地域は黎朝の支配下となった。しかし北部からの移住者は少なく、この時代の遺跡はほとんど確認できないという。
1558年(永禄元年)、黎朝で権力を鄭氏と争っていた阮潢が、拠点をベトナム中部の順化(フエ)に移動。以後、阮氏政権は北部の鄭氏政権と敵対しつつ、ベトナム中部の開発に力を注いだ。このためか、ホイアン地域では16世紀末ごろから爆発的に遺跡数が増える。
ホイアンに1618(元和四年)~22年(元和八年)に滞在した宣教師クリストファロ・ボルリの記録によると、阮氏(広南阮氏)支配地域には約60の港があった。またクァンナム(広南)に属するホイアンについて以下のように記す。
最も美しい港は、外国人のすべてが寄港し、有名な物産会があり、その港はクァンナム(広南)に属している。
またボルリは現地と中国人・日本人との交易について、つぎのように記録している。
中国人と日本人はダンチョン(塘中=阮氏支配地域)の主要な貿易商人であり、毎年ひとつの海港で市をおよそ4ヵ月間ひらく。日本人は4、5万銀を彼らの地から運び、中国人は彼らの地から絹と多くの商品を運んでくる。
ホイアンは古くから貿易港として繁栄してきたが、その背景には地理的位置だけでなく、トゥーボン川上流に香木などの森林生産物や金鉱などの鉱物資源が豊富にあったことも挙げられている。宣教師アレキサンドロ・ド・ロードはホイアンの特産品として「金鉱、胡椒、生糸、砂糖、沈香、海燕の巣」を挙げ、砂糖を日本に輸出しているとしている。
日本町の形成
ホイアンには日本人居留区である「日本町」も形成された。1617年(元和三年)、平戸からベトナムに向かったウィリアム・アダムス一行は、ホイアンの日本人居留地を目撃し、これを航海記中に「日本町」と記録したという。また先述の宣教師ボルリの記録にも以下のようにみえる。
この都市はフェイフォ(ホイアン)と呼ばれ、大きな都市でふたつに分けることができる。ひとつは中国町でありもうひとつは日本町である。
日本の鎖国後もホイアンに滞在した角屋七郎兵衛の1670年(寛文十年)の書状にも「日本町」と記されている。しかし18世紀以降の記録にはみえなくなり、この頃には消滅していたと推定される。
陶磁の生産と貿易
ホイアンでは、ディン・カムフォー地点の発掘調査で17世紀の溝状遺構が検出され、そのなかから投棄された大量の陶磁器が出土した。
溝は17世紀はじめに掘削され、その溝内に堆積した土の下層から中層にかけて16世紀末から17世紀の中国陶磁器と、ベトナム陶器が出土。中国陶磁器は、景徳鎮窯系と福建・広東窯系の製品で、おもに青花磁器の碗・鉢、皿類であった。そして溝の上層からは17世紀後半の日本の肥前磁器の碗・鉢、皿とベトナム陶器類が出土した。
このことから、17世紀のある時期からホイアン住民の使用する飲食器が中国製品から日本製品に変化したことが分かる。17世紀中ごろ、中国では明清交代期における内乱で陶磁器の輸出が激減しており、日本の肥前磁器が中国磁器の代替品となっていたことがうかがえる。
一方でベトナム北部の青花磁器碗・皿などはまったく出土していないという。北部の鄭氏政権と広南阮氏政権の対立抗争により、北部との貿易関係がほとんどなく、その製品も流通していなかったと推定されている。
またベトナム陶器のうち、長胴瓶と呼ばれる胴長の容器は貯蔵用であり、大型の鉢は水を張り食器などを洗う盥として、鉢と山形の蓋は煮炊き用だったとされる。宣教師ボルリは、魚醤であるヌックマムを「どの家でも瓶や壺に貯えてある」と述べている。
ベトナム陶器の生産地は、胎土の主成分等の化学分析から、広南阮氏の居城付近であるフエ近郊のミースェン窯跡群や貿易港ホイアンの地域である可能性が高いとみられている。
これらの地で生産された長胴瓶などのベトナム陶器は、日本でもみつかっており、ホイアンから船積みする際の貯蔵容器として日本に渡ったともされる。
日本では当時の茶人に好まれ、「南蛮切留花入」や「南蛮〆切糸目建水」と呼ばれ茶器に転用されたものが伝世している。一方で伝世されたもののなかには、明らかに特別注文された容器もある。それらの品々については、ホイアン在住の日本商人が介在した可能性も指摘されている。