肥前有田を中心とした地域で生産された磁器。近隣の伊万里港から積出された為、消費地では「伊万里」と呼ばれた。明清交代の戦乱で中国磁器の輸出が激減すると、代わって世界市場を席巻した。
肥前有田の磁器生産の始まり
肥前では磁器よりも先に、朝鮮半島系の技術に基づく陶器(唐津焼)の生産が1580年代後半に始まっていたと推測されている。当時は、北松浦地方の波多氏の居城・岸岳城(佐賀県唐津市)周辺で焼かれていたという。しかし波多氏が羽柴秀吉に取り潰されたことで、陶工は離散。肥前陶器生産の中心は現在の佐賀県伊万里市や武雄市など南の方に拡散した。
文禄・慶長の役(1592~1598年)に伴い、鍋島軍によって複数の朝鮮陶工*1が肥前に連れて来られた。これにより陶器の生産が盛んとなり、1600年代には、有田にも数か所の陶器窯が築かれていたとみられている。
日本の磁器生産は、1610年代に開始されたと推定されている。有田の草創期の陶器を焼いた窯跡から、砂目跡が残る磁器と陶器が一緒に発見され、磁器は陶器を焼いた窯の中から生み出されたことが明らかになった。砂目積みは、当時の朝鮮独特の窯詰め法であることから、磁器も陶器と同じく朝鮮半島系の技術によって始まったと考えられている。
磁器生産には、原料とある陶石が必須であった。江戸後期の「金ヶ江文書」では、朝鮮陶工・金ヶ江三兵衛が領内を探し歩いて、ようやく有田に入り、そして泉山の石場を発見したと記している。
初期伊万里の国内流通
朝鮮系の技術によって始まった肥前の磁器生産だが、装飾面では中国・景徳鎮磁器の影響がみられる。日本国内では、景徳鎮磁器の人気が特に高かったためとみられる。また中国磁器以外にも『図絵宗彜』や『八種画譜』のような中国の絵手本が、デザインソースとして利用されたことが指摘されている。
初期の肥前磁器の生産量は多くはなかった。西日本から日本海側の秋田あたりまでの地域で出土しており、東日本太平洋側では出土例は少ない。主に各藩の居城、あるいは城下の武家屋敷などで出土しており、必ずと言ってよいほど中国磁器と一緒に出土しているという。
有田を中心とする地域で作られた磁器は、伊万里港から積み出されたことから、消費地では伊万里焼(今利焼)と呼ばれた。正保四年(1657)刊行の『毛吹草』に、肥前の産物の一つとして「唐津今利ノ焼物」がみえる。また京都鹿苑寺(金閣寺)住持・鳳林承章の日記『隔蓂記』の寛永十六年(1639)閏十一月十三日条に、ある人の形見として「今利焼藤実染漬之香合」を頂戴した、と記されている。
生産体制の確立
寛永十四年(1637)、佐賀鍋島家は陶業者が燃料の薪をとるため山を伐り荒らすことを理由に、日本人陶工826人を追放。伊万里・有田地方の11カ所の窯場を取り潰し、有田の13カ所の窯場に統合した*2。この出来事を契機に、有田から陶器生産が消え、磁器専業の生産体制が整ったと考えられている。
この事件の少し後の寛永十九年、二十年(1642、43)に、大坂商人らが一ヶ年の運上銀20貫目を上納することを条件に、肥前磁器の一手販売(山請け)を申し出て許可された。慶安元年(1648)には、有田皿屋代官・山本神右衛門が運上銀77貫688匁を取り立てて納めている。肥前磁器の生産力が向上し、販売量も増加していたことがうかがえる。
中国系技術の導入
1644年(寛永二十一年)、中国では明朝の首都・北京を清軍が占領。以後、中国では長く混乱が続くことになる。これにより、中国磁器の海外輸出が激減する事態となった。
肥前における色絵磁器の生産は、この頃から始まる。酒井田柿右衛門家文書『赤絵切り(始り)の「覚」』によれば、伊万里の陶器商人・東嶋徳左衛門が長崎にいた中国人に礼銀およそ十枚ほど払って技術を教えてもらい、試作を有田の年木山にいた喜三右衛門(初代柿右衛門)に依頼。失敗を重ねながらも「こす権兵衛」とともに完成させ、正保四年(1647)六月、長崎に持参して加賀前田家の御買物師に売ったという。その後も、赤絵製品を中国人、オランダ人に売ったことが記されている。色絵磁器の生産開始の背景に、中国からの技術流出があったことがうかがえる。
初期色絵は、1640年代から17世紀後半にかけて、祥瑞手、五彩手、青手など様々な様式が、一部並行しながら開発されていった。このほか、小さな粘土の針で高台内を支えて焼きへたりを防止するハリ支えなど、形成技法でも技術革新がみられ、景徳鎮磁器のように器壁が薄くシャープな製品の生産が可能となった。
海外輸出の始まり
中国の混乱は、中国磁器を輸入していた東南アジアから西アジア、ヨーロッパにも影響。これら地域の需要を受けて、伊万里焼の海外輸出が始まった。正保四年(1647)に「粗製の磁器174俵」を積んだ中国船が、シャム(タイ)経由でカンボジアに向かったことを記すオランダの記録ある。実際、ベトナム、タイ、インドネシアなどの遺跡で、1640年代に遡る肥前磁器が出土している*3。
記録に「粗製の磁器」とあることから、1640年代は厚手で粗放な作りの磁器が輸出されたとみられる。日本国内向けに作られたものが輸出に回されたと考えられる。
慶安五年(1650)からは、オランダ東インド会社も伊万里焼の輸出を始めた。ベトナムの黎朝の首都トンキン(現在のハノイ)にあった商館向けに「種々の粗製磁器145個」を積んだオランダ船が長崎を出航している。承応二年(1653)には、インドネシアのバタヴィアの薬局用へ2200俵の肥前磁器を運んだことが記録に見える。
オランダ船による輸出
明暦三年(1657)頃、オランダ東インド会社は、伊万里焼のサンプルをオランダ本国に運んでクオリティをチェックした上で、万治二年(1659)にヨーロッパ向けを含む56,700個の伊万里焼を大量注文。本格的に伊万里焼のヨーロッパ輸出を開始した。その後も輸出は順調に行われ、しばらくの間は、毎年数万個単位で運んでいる。
ヨーロッパに輸出された代表的な製品は染付芙蓉手皿で、中国の景徳鎮が明朝末期にヨーロッパ向けに製作し、人気を博したスタイルの写しで、様々なサイズが作られた。一方で、調味料入れやインク箱など、当時のヨーロッパの生活に基づく独特な器形の製品もみられた。注文生産も行われたが、注文からオランダに納品されるまで、実に3年の年月を要したと考えられている*4。
南アジア(セイロン、ベンガル、スラッテ、コロマンデルなど)や西アジア(ペルシア、モカなど)にも、オランダ東インド会社によって大量の伊万里焼が運ばれていたことが記録上で確認できる。またインド洋のモーリシャスやアフリカ南端のケープタウンでも、オランダ船が運んだとみられる伊万里焼が見つかっている。
海外市場での流通
中国船やオランダ船によって輸出された伊万里焼は、東南アジアなどの輸出先で積み替えられ、別の場所に再輸出されることもあった。中南米のスペインの植民地であったメキシコシティやグアテマラ、キューバ、ペルー等で発見された伊万里焼は、中国船によってマニラに持ち込まれ、スペイン船が太平洋を渡って運んだものとみられる。
エジプト・フスタート遺跡では、17世紀後半の伊万里の柿右衛門様式の色絵碗が1点出土している。これはイスラーム商人等によって紅海を経て運ばれたと考えられている。タンザニア・キルワの「スルタンの墓」で見つかった17世紀後半の染付芙蓉手皿や、ケニア・モンバサの金襴手の壺(18世紀前半)も、オランダ船以外の船で運ばれてきた可能性が指摘されている。
海外輸出の終焉と国内向けへの転換
1683年(天和三年)、台湾の鄭氏が清朝に降伏。翌年の1684年(貞享元年)には遷界令による海禁が解かれ、中国磁器が再び輸出されるようになった。これにより、伊万里焼は東南アジアでのシェアを失った。
ヨーロッパにおいても、中国磁器に苦戦を強いられた。またオランダ東インド会社の弱体化やマイセンなどのヨーロッパ磁器の生産開始なども重なり、輸出は減退していった。オランダ東インド会社による伊万里焼の公式輸出は、宝暦七年(1757)が最後となる。
肥前の磁器生産地では、日本国内向けへのシフトが図られた。安価な磁器が作られ、これまで磁器を使わなかった階層へと販路を拡大させた。全国の発掘調査の状況から、19世紀初頭までには、ほぼ日本の隅々まで磁器は流通し、日常的に使用されるようになったと考えられている。
参考文献
- 大橋康二 『歴史ライブラリー177 海を渡った陶磁器』 吉川弘文館 2004
- 岡地智子 「はるかなる古伊万里 400年の物語」 (岡地智子・福田浩子・山下寿水 編 『はるかなる古伊万里 400年の物語』 広島県立美術館 2021)
- 大橋康二 「肥前磁器誕生と発展」(NHKプロモーション 田中明美・重名桜 編 『初期伊万里展 染付と色絵の誕生』 2004)
- 野上建紀 「アフリカに渡った伊万里」(『アフリカ研究』72号 2008)
- 野上建紀 「東アフリカの遺跡と陶磁器(Ⅱ)-2019年の調査から-」 (『多文化研究会』6 2020)
*1:有田に入った金ヶ江三兵衛をはじめ、「山本神右衛門重澄年譜」には鍋島軍が帰国時に焼物上手の頭六、七人を連れ帰って金立山で焼物を焼かせたことがみえる。
*2:考古学的調査の結果、取り潰された窯の特定がなされている。伊万里地方の窯場は、伊万里市藤ノ川内に近い鞍壺、卒丁古場、栗木谷、岳野の4カ所。有田地方は、天神森、小物成、小溝、向原、清六ノ辻、迎の原、原明、弁財天の7カ所。いずれも砂目積みによる陶器を焼いていた窯であり、この事件以降、この地域からこのような陶器生産が消える。
*3:ベトナムのホイアンで出土した染付草花文瓶や、インドネシア・バンテン王宮遺跡出土の染付菊花形手塩皿、タイ・アユタヤの王宮跡出土の染付小瓶などが知られる。
*4:例えば、1661年(寛文元年)9月にオランダで作成された伊万里焼の注文書は、1662年6月にインドネシア・バタヴィアから長崎へ転送され、8〜9月に長崎に到着する。これを受けて肥前で製作が始められ、1663年11月までには長崎から積み出しできるよう整えられ、伊万里焼を載せた船は12月にバタヴィアを出発、1664年8月にオランダに到着する。