17世紀後半、肥前磁器(伊万里焼)のコーヒーカップが海外に輸出された。オランダは、本格的な輸出開始の初期からイエメンやペルシア、インドへとコーヒーカップとみられる小碗を運んでいる。一部はそこからオスマン帝国領内に流通していったとみられる。
コーヒー文化の広がり
コーヒー飲用は、中東のアラビア半島東南部・イエメンで15世紀中頃に広まったという。その後、マムルーク朝やオスマン帝国の支配するイスラーム世界に拡大。さらに南アジア、東南アジアへと伝播していった。
オスマン帝国の首都イスタンブールには1554年(天文二十三年)に、2軒の「コーヒーの家」が建てられた。スレイマン二世(1566ー77)の治世下のイスタンブールにはすでに600余りの「コーヒーの家」があった。
17世紀初頃には、ヨーロッパでもコーヒー豆が流通し始めていたとみらている。1652年(承応元年)には、イングランドのロンドンにおいて「コーヒーハウス」が誕生。以後アムステルダム、パリ、ウィーン、ニュルンベルク、レーゲンスブルク、プラハ、ハンブルク、ライプツィヒなど各都市にカフェが建てられていったという。
南アジア・西アジアへの輸出
万治二年(1659)、イエメン・モカのオランダ商館に肥前磁器の「コーヒー碗8910個」が運ばれた。オランダの記録上、コーヒー用と分かる肥前磁器碗の初見とされる。その内訳は「足付き3105個、足なし2970個、染付(外側、全面青色)2835個」とある*1。
万治三年(1660)のインド・スラッテ商館向けの「碗4万9770個」があり、内訳は「染付2760個、染付1560個、足付き6210個、足なし3万2400個、八角形9000個」だった。モカの事例から、コーヒー碗の可能性が高いという。天和元年(1681)にペルシア商館の注文らしい「コーヒー碗3万個」をバタヴィアに運ぶとの記録もある。
オスマン帝国領での流通
万治二年(1659)のモカに運ばれたコーヒー碗は、当時紅海まで勢力下におさめていたオスマン帝国の商人に売却されたと推定されるので、オスマン帝国向けと推定されている。トルコのトプカプ宮殿所蔵品には、中国景徳鎮窯のコーヒー碗とみられる小碗*2は多いが、その図録の中には肥前磁器とみられるものが含まれているという。
ヨーロッパへの輸出
先述のように17世紀以降、ヨーロッパでもコーヒー文化が広がっていた。オランダの遺跡から出土する肥前磁器(伊万里焼)の中では、小碗の出土が最も多い。コーヒーや茶などを飲む際に使用されたとみられる。1670〜1690年代頃、小碗と同意匠の受皿も付くようになる*3。
コーヒーと日本
肥前でコーヒーカップが作られていた17世紀後半、日本にもコーヒーは伝わっていた。延宝九年(1681)に出版された京都版『長崎土産』にはコーヒーについて、「日本の大豆に似たり。是は磨し砕き、湯水に入れ煎じ、白糖を加えて常に服す。我国の茶を用うるが如し」とある。
寛政九年(1797)の『長崎見聞録』には「かうひい」および「かうひいかん」という項があり、「かうひいは蛮人煎飲する豆にて、其形白扁豆(しろへんづ)の如く」とある。また「かうひいかん」は「かうひいを浸すの器なり」といずれも図に示している。
他の文献にも記載があるが、当時の日本では普及するには至らなかった。
参考文献
- 大橋康二 『歴史ライブラリー177 海を渡った陶磁器』 吉川弘文館 2004
- 岡地智子・福田浩子・山下寿水 編 『はるかなる古伊万里 400年の物語』 広島県立美術館 2021
- 江後迪子 『南蛮から来た食文化』 弦書房 2004
*1:「足付き」「足なし」が普通の高台の有無を指すのか、それとも高足杯のようなものと普通の高台の碗の区別なのかは明らかでないが、考古資料や伝世資料をみると、後者の可能性が高いように思われる。(『歴史ライブラリー177 海を渡った陶磁器』p.181より引用)
*2:ヨーロッパ人が書いた中近東への旅行記によると、コーヒーについて、人々は広場で車座になり、小さな磁器のカップで飲むと記している。17世紀初のミニュアチュールには、トルコの宮廷で給仕が捧げ持つ小さい碗が描かれている。
*3:1668年のロンドンのコーヒーハウスを描いた絵画には、受皿がない小さい碗が描かれている。これに対し、1687年にフランスのニコラス・ド・ブレニュイがホット飲料について著した『茶・コーヒー・ココアの利用について』には、トレーにのった受皿付きのコーヒーカップが描かれている。