戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

ニュルンベルク Niamberg

 ドイツ南部バイエルン地方の都市。ペーグニッツ河の両岸に市街地が形成されている。金属加工業を中心とした手工業が発達し、また国際商業の町としても栄えた。神聖ローマ帝国における重要都市でもあり、15世紀以降、帝国宝物の保管が市参事会に委ねられている。

都市のはじまり

 ニュルンベルクの起源は、1040年(長久元年)ごろ、ザリアー朝のハインリヒ3世が、ここに館を設け、宮廷会議を開いたのに始まるという。当初はまだ城は築かれておらず、1105年(長治二年)に初めて城<castrum>と記される。

 城の南側、ペーグニッツ河に降りていく平坦地には、近隣の王領地や王有林の管理に当たる家士(ミニステリアール)たち、さらには彼らの需要に応じた手工業者たちが住み、次第に拡充していった。城のすぐ真下に楯師小路、鍛冶屋小路、雑貨商小路の路地名が残っている。

 この平坦地の南端には、使徒ペテロとパウロに奉献された礼拝堂が建てられた。1070年(延久二年)ごろ、巡礼者が在地の隠修士ゼーバルトの墓を同所で発見。礼拝堂はゼーバルトに捧げられることになり、1230年(寛喜二年)ごろには聖ゼーバルト教会が建てられている。

 また1062年(康平五年)以前、皇帝ハインリヒ3世はニュルンベルクに市場を開設している。その位置はゼーバルト教会の北側で、当時はミルク市場と称された。市場への出入り口は城の左下に設けられた門で、これがニュルンベルク最古の門であるという。門の存在から、囲いがあったことがうかがえるが、それが石造の囲壁であったかどうかは不明。とはいえ、12世紀の市域は正方形をなしていたと考えられている。

 ザリアー朝断絶後、ニュルンベルクはシュタウフェン朝のコンラート3世が受け継いだ。1138年(保延四年)、コンラート3世はニュルンベルクに守備責任者、都市支配者として城伯(ブルクグラーフ)を配置。次の皇帝フリードリヒ1世バルバロッサは、1163年(長寛元年)と1166年(仁安元年)にここで宮廷会議を開き、1183年(寿永二年)には、ここは<palatuium(宮殿)>と称されている。

商業と産業の発展

 ニュルンベルクには、1112年(天永三年)に関税徴収所が設けられ、1140年(保延六年)以来造幣所が作動している。1146年(久安二年)にはユダヤ人居住区がみられる。1163年(長寛元年)、皇帝フリードリヒ1世がバムベルク商人とアムベルク商人に与えた文書には「ニュルンベルクの者たちが帝国全体において得ており、商業を営んでいる安全と自由」を賦与するとあり、ニュルンベルク商人の台頭ぶりがうかがわれる。

 なお、12世紀のニュルンベルクには、ペーグニッツ河の南側にもう一つの集落があった。すなわち、シュタウフェン朝の植民活動の一環として王領地管理所が設けられ、その東方に紡錘型の集落が出現していた。この集落の小川には遅くとも1234年には水車が設けられており、製粉、屠殺業、革なめし業、染色業、とりわけ金属加工業に用いられた。特に金属加工業は、後のニュルンベルク産業の特色をなすものになる。

 集落は農民の集住と手工業者の流入によって人口が急速に増加したらしい。その保護のため、1250年(建長二年)頃、この地区は紡錘型の囲壁と壕で囲われることになり、その東端に1270年(文永七年)頃から聖ローレンツ教会が建てられた。

 北のゼーバルト区でも市域の拡張が起っていた。ペーグニッツ河本流北岸の水車は、1325年(正中二年)には11基あり、設置は南地区の水車と同時期と推定されている。それらはもっぱら金属加工に使われた。その上流には、製粉、縮絨・染色、革なめしに使用された水車18基があったという。水車の数に示されるように、この地区でも手工業者が増加しており、河岸の湿地帯が埋め立てられて住宅地とされ、それにつれて囲壁も広げられた。

都市を囲む外壁

 ゼーバルトローレンツ両地区を一つの囲壁に包括しようとする事業は、1320ー30年代に入って市参事会によって着手された。

 1340年代から最後の大拡張が始まり、1346年(貞和二年)に南西角の門が成り、1377年(永和三年)に最東端の塔の建設が着手されている。1380年(康暦二年)には西北の出入り口となる門が、1388年(嘉慶二年)東南角の建造物も完成した。こうして四隅が確定した上で、その間に石造の壁が構築された。全工事が完了するのは1452年(享徳元年)のこととなる。

 この壁は二重になっていて、都市は二重の壁によって取り巻かれていた。内側の壁には83の塔、外側の壁には40の塔を備え、壁の厚さは、その上で武装した市民二人が優にすれ違えるほどであったという。

 市壁の外側にはさらに壕が掘られ、その幅は30メートルであったが、それらはみな全市民の労働奉仕によって掘られた。1430年(永享二年)の『壕築造書 Grabenbuch』によれば、12歳以上の男子は年一日の労働奉仕を義務付けられ、不可能な者は代納金を納めなければならなかった。

都市の支配組織

 ニュルンベルクの人口は、都市成立後急速に増加。15世紀前半には2万〜2万5000人に達した。その外郭集落を含めると、さらに2000人から3000人を加えることになり、ケルンに次ぐ、ドイツ第二の大都市となった。

 これにともない自治組織も形成されて行った。1219年(承久元年)、皇帝フリードリヒ2世によって発布された解放特許状によれば、今まで市民個々人から徴収されていた皇帝への租税が、市民共同体から徴収されるとあり、住民のまとまりが見て取れる。

 ニュルンベルクの行政を執行したのは皇帝の代理人であるシュルトハイス(執政)であったが、それを補佐した組織として、裁判参審員会の他に、指名人と呼ばれる市民団体があり、これらが実質的に市政を担った。

 1256年(康元元年)、ライン都市同盟加盟にあたって市参事会がみえ、1318年(文保二年)の都市官職表によれば、市参事会員12名、参審員13名、指名人64名の名前が列挙されている。これらの人々は、主として市内外に土地を所有する帝国直属の家士出身者であり、都市貴族の地位を占めた。

ニュルンベルクの手工業

 ニュルンベルクの小売業、手工業については、14世紀初頭から記述が始まる『規約書 Satzungsbuch』からうかがうことができる。1302ー1315年の『規約書』には、パン屋、織布業者、ワイン飲み屋、水車屋、魚屋、刃物屋、ビール飲み屋、瓦屋などに関する規定が出てくる。

 規約の中には「いかなる手工業者も、市参事会の了承なしに、組合を作ってはならない」との項目があり、また織布業者を南北地区に各三人に限定し「灰色布を縮絨するに当たっては、二十年来の如くに、その巾と厚さを維持すべし」ともある。このことから、手工業活動が13世紀半ば過ぎに遡ること、早くから同業者組合結成の動きがあったことがうかがえる。

 1363年(貞治二年)の『親方帳 Meisterbuch』によれば、手工業者の親方数は50業種、総計1150人余を数える。パン屋、肉屋、仕立屋、靴屋は各70〜100人の親方を持ち、つづいて金属加工業関係の親方が350人、毛皮加工から袋物、手袋製作にいたる皮革業者が200人、織物業者、建築業者が各70人になっている。他都市と比べると金属加工業者が多い。

金属加工業とその流通

 金属加工に関わる業者350人のうち、刃物鍛治工が70人でトップを占める。つづいて武具匠60人、鏡板職23人、ブリキ容器加工業者15人、錫容器鋳物師14人と数え、以下およそ30業種に分かれている*1。全体として金物業に直接たずさわる人口は、1000人をはるかに上回るものと推定されている。

 金物の筆頭は鉄製品であったが、鉄の原料はニュルンベルクの東60キロメートルのオーバーファルツ領のアムベルク、その北のズルツバッハからもたらされた。同地域の産出量は、中世・近世初頭のヨーロッパの鉄生産量の6分の1を占めていたともいわれる。また鉄の加工の際に必要な錫は、ニュルンベルク北東80キロメートルのエルベンドルフ、その北にひろがるフィヒテル山地で産出した。

 ニュルンベルクの金物は他都市の商人を引きつけ、彼らやニュルンベルク自身の商人によって全ヨーロッパへ、さらにはその彼方に輸出されていった。ドイツ国内では、ハンザの盟主リューベック市の1353年(文和二年)の雑貨商規約に、取扱商品としてニュルンベルクの刃物が挙げられており、1392年(明徳三年)フランクフルト大市では、ニュルンベルク商人がケルン市に刃物6000丁を引き渡している。

 15世紀になると、さらに活発となる。例えばスイス北西部のバーゼルは、1418年(応永二十五年)に107グルデンで「白色ブリキ strutz」一樽をニュルンベルクで購入し、1433年(永享五年)の戦争時に754グルデンで小銃を射撃指導員付きで購入。ブルゴーニュ戦争が起こった1473年(文明五年)および1475年(文明七年)には、鉤付き鉄砲、短銃、砲身の長い蛇砲 Schlangenを666ポンドで購入している。なお、戦時ではない1434年(永享六年)には、針31000本が購入されている。

フランドルへの進出

 1304年(嘉元二年)、フランドル地方ブリュージュで、ニュルンベルク商人がトゥールネの織物を購入している。以後、フランドルでニュルンベルク商人の活動が見られるようになる。14世紀初頭のニュルンベルクの商会の帳簿には、主商品としてブリュッセル、ガン、ブリュージュマーストリヒトなどフランドルの織物が挙げられている。

 1311年(応長元年)には、ブラバンド大公ヤンにより、ルーヴァン、ブリュッセルアントウェルペン、フィルフォルデ、ジュネップでの関税免除を認可されている。さらに1334年、フランドルとの交易で特権的地位をケルン市に与えていたケルン大司教が、ニュルンベルク商人に対し、例外的にシュターペル(積み換え、販売などの強制)を免除し、相互関税免除を承認した。

 1358年(延文三年)、ブリュージュでの高い仲買料や計量の際の不正行為に激怒したハンザ同盟が、フランドルとの商業をボイコットするという事態となる。1360年(延文五年)、抵抗を諦めたフランドル側は、ハンザに旧来の諸特権を再確認して、和解。そして1362年(貞治元年)1月、フランドル伯とガン、ブリュージュ、イーペルのフランドル三都市とによって、ニュルンベルク市民に対して59箇条にわたって商業の自由、関税免除の権利を承認する特許状が与えられている。

 実はハンザ同盟のボイコットの裏で、ニュルンベルクの商人は、高価なフランドル織物を売り歩いていたらしい*2。フランドルからの特許状は、この報償の意味合いがあるともいわれる。

 当時、フランドル織物は他の地域の織物にシェアを奪われつつあり、ニュルンベルク自体も14世紀初頭から粗毛織物業が勃興していた。それでもブリュージュなどは、イングランドからの羊毛の輸入窓口として依然重要であった。ニュルンベルク商人はその羊毛を自都市へ、あるいはロレーヌ、スイスの陸路を通じて、イタリア、とりわけフィレンツェに運搬している。

 またニュルンベルクからフランドル方面には、特産の金物が輸出されていた。例えばライデンには1496年(明応五年)に刃物800丁、ろうそく台300台が販売されている。アントウェルペンには、1502年(文亀二年)に小ブリキ桶18個、大ブリキ桶2個、銅30荷、真鍮、銅線3荷、銅板28枚、銅塊81片が、1507年(永正四年)には甲冑用板金24枚が販売されたことが記録に見える。

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イタリアへの進出

 ドイツ商人がイタリアのヴェネツィアに進出を始めたのは13世紀初頭からであった*3ニュルンベルク商人のヴェネツィア進出も13世紀末、ないし14世紀初頭から始まった。その数は1331年(元徳三年)から1505年(永正二年)の間に200人以上にものぼる。同期間、アウグスブルク商人は49人、レーゲンスブルク商人は25人であり、格段の差がある。

 1335年(建武二年)、ニュルンベルク商人は、ヴェネツィアから輸入した香料、胡椒の販売店をケルン市に設けている。14世紀後半、ヴェネツィアと恒常的な商取引関係を持つ者も現れ、ニュルンベルク商人だけで「ドイツ人商館」の宿泊用小部屋56室のうち、少なくとも6部屋を常時貸切にしていたほどであった。

 ニュルンベルク商人がヴェネツィアで販売した中心商品は金物であった。16世紀、アウグスブルクで書かれた記録は、輸出品の大部分が「銅板、鉛、真鍮、鉄、鋼鉄、銀板、針金、ブリキ桶」から成っていたと述べている。そして、ヴェネツィアの仲買人の報告によれば、これら金物はギリシア、東地中海沿岸だけでなく、北アフリカマヨルカ島バルセロナまで売られたという。

 また北イタリアのロンバルディア地方にも、14世紀ごろにはニュルンベルク商人の活動がみられる。当時、ロンバルディアの大都市であるミラノは、バルヘント織物を大量に北ヨーロッパへの輸出していた。ロンバルディア北ヨーロッパ向けの毛織物やバルヘント織物の集荷地であったコモの、1375年(永和元年)の記録によると、半年後払いの手形を入れたドイツ商人の中では、トップがルーツェルン商人で6771ポンド、次がニュルンベルク商人の6535ポンドであった。以下、バーゼル798ポンド、チューリヒ441ポンド、ザンクト・ガレン430ポンド、ウルム325ポンドとなっている。

東ヨーロッパへの進出

 1321年(元亨元年)と1326年(嘉暦元年)、ボヘミア国王ヨハンは、ニュルンベルク商人にプラハでの相互交易を特許。1338年(暦応元年)、モラヴィア辺境伯カール(後の皇帝カール4世)は、ニュルンベルク商人の請願に基づいて、ヨハンが1326年に認めたボヘミア商行に際しての安全保障を再確認した。このようにボヘミアでの基盤を固めたうえで、ニュルンベルク商人のポーランドハンガリーへの進出が始まる。

 1354年(文和三年)、ポーランド王カジミェシュ3世は、ニュルンベルク商人にクラクフ市で商業を行うことを許可。カジミェシュ3世はさらに、1365年(貞治四年)、皇帝カール4世の要請に基づいて、ニュルンベルク商人に王国内、特にクラクフからレムベルク(リヴィウ)間において商業を自由に営む権利を認めている。

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 ハンガリーでは1337年(建武四年)、グラン大司教が、その領域内での関税免除の特許状をライン、フランドル、シュヴァーベンの商人たちに発布しているが、その中にニュルンベルクの商人も含まれていた。この背景には、ハンガリー産貴金属に対するヨーロッパの需要の高まりがあった*4。1357年(延文二年)、ハンガリー王ラヨシュ1世は、通商自由の認可をプラハニュルンベルクの商人全般に拡大適用することを認めた。この特許状は1383年(永徳三年)6月、ラヨシュ1世の後継者マーリアによって更新されている。

 14世紀初頭以降、ヴェネツィアフィレンツェで造幣される金、銀貨は大部分がハンガリー産に依拠していた。当時、ハンガリーは世界の金生産の3分の1、銀生産の4分の1を占めていたといわれる。ニュルンベルク商人はハンガリーの貴金属を携えてオーストリア領内を通過し*5ヴェネツィアフィレンツェに貨幣の原料を供給していたとみられる。

ハンガリーでの鉱山支配

 14世紀、ハンガリーカルパティア貴金属鉱山を支配していたのはフィレンツェ人だった。しかし15世紀初頭、ジギスムント(カール4世の子)とハンガリーの王位を争ったラディスラウスを支持したため、ジギスムントによってハンガリーから一掃されてしまう。代わってドイツ人がハンガリー鉱山へと進出する。

 14世紀末から15世紀初頭にかけて、ハンガリーの財政、鉱山で絶大な権力を振るった人物に、ニュルンベルク市民のカメラーとマルクスがいる。カメラーは14世紀末に、スロヴァキアのコンツェ市の関税徴収官、国王ジギスムントの財務担当官になり、カルパティアの鉱産物がウィスラ河を通じて輸出する際の最高監督官を務めていた。ハンガリーでの造幣量は彼の裁量で決定され、造幣されなかった金、銀の輸出量によって中部ヨーロッパの貴金属相場は左右されたという。

 マルクスニュルンベルク商人からなるフレックスドルファー・ケーグラー・ツェンナー商社の一員であった。この商社は、マルクスを通して入手したハンガリー非鉄金属類をミラノに輸出し、見返りとしてバルヘント織物を仕入れるのを主たる業務としていたと推定されている。1415年(応永二十二年)、マルクスはジギスムントからハンガリー最大の鉱山クレームニッツの支配人に任命され、最重要なハンガリー造幣所の長官にも就任している。

 しかし1430年代からハンガリーではドイツ人排斥運動が激化。1439年(永享十一年)にはハンガリーの首都ブダで蜂起が起こり、ニュルンベルク商人は資本を引き揚げ、カルパティア鉱山からの撤退を余儀なくされた。

ザイゲル精錬とボヘミア

 15世紀半ばから、銀を含んだ銅から鉛を使って銀を分離するザイゲル精錬*6が、本格的、組織的に行われるようになる。この精錬法をいち早く取り入れたのはニュルンベルクで、1453年(享徳二年)、同市のフラウエン門前に精錬所が設立されたといわれ、1460年代以降、次々と同精錬所が設置されるにいたる。ここでハンガリーボヘミアの銀や銀を含んだ銅の精錬が行われた。

 ボヘミアでは、13世紀半ばにクッテンベルク鉱山が開発され、ボヘミア鉱山の中心地となっていた。同国では銀の国外輸出は禁じられていたが、銀の副産物である銅は輸出された。1388年(嘉慶二年)5月、ニュルンベルク人が所有する銅2ツェントナー(125kg)を輸送中に貴族に強奪されたことが記録に見える。以後、ニュルンベルク商人は直接、あるいはクッテンベルク市民との取引を介してニュルンベルクに銅を輸入。入手された銅は、ニュルンベルク市門外に設立された最新のザイゲル精錬所で精錬された。

 一時、銅の買い入れ特権をアウグスブルク資本に奪われかけたこともあった。しかし1526年(大永六年)にハンガリーボヘミア王であったラヨシュ2世がモハーチの戦いで戦死し、代わってハプスブルク家のフェルディナント1世がボヘミア王に即位。1527年(大永七年)、フェルディナント1世は、ニュルンベルクのクッテンベルク銅買い入れ特権を認め、銅は従前通りニュルンベルクに引き渡されることになった。

帝国宝物の保管

 1423年(応永三十年)12月、ローマ王を兼任していたジギスムントは、神聖ローマ皇帝の証である帝国宝物の保管を、ニュルンベルク市に委ねることを決定。併せて年1回の展観行事を開く権利と、それに付随して2週間のメッセ(年市)を開く許可を与えた。

 ニュルンベルクは既にジギスムントの父のカール4世から、代々の王が即位後最初に帝国議会を開催すべき都市として認められており、神聖ローマ帝国内での確固たる地位を得ていた。ここで新たに帝国宝物の管理を委ねられることにより、皇帝選挙の地フランクフルトと国王戴冠の地アーヘンに次ぐ、極めて高い地位を確実なものとした。

 翌年3月、帝国宝物*7ニュルンベルクに移送され、市内の聖霊救護院で保管された。以後、ニュルンベルクでは、帝国宝物の展観行事が、ほぼ毎年、市中央に位置するハウプトマルクト広場に仮設された木造櫓を用いて行われた。この行事は、16世紀前半に宗教改革が導入されて中止されるまで、およそ100年間続けられた。

 展観の際には、膨大な数の人々が市の中心部に殺到した。またヴェッティン家やホーエンツォレルン家、ヴィッテルスバッハ家などの貴顕はドイツ全土からやって来たが、聖職者(司教、修道院長、主席司祭、修道会管区長など)や下級貴族などは、もっぱらマイン川南岸の地域の人々だった。ニュルンベルクの展観は、帝国の南側の人々にとってとりわけ魅力的な催しであった。

 帝国宝物の一つである聖槍は、皇帝カール4世の時に金メッキのカバーが被せられていた。1511年(永正八年)、ニュルンベルクの画家アルブレヒト・デューラーは、同じくニュルンベルクの富裕な市民マテウスランダウアーの依頼で『聖三位一体の礼拝』を制作。『聖三位一体の礼拝』には、まさしく金色のカバーが被せられた聖槍が描かれている。通常、聖槍の穂先は鉄の刃として描かれることが一般的だが、デューラーニュルンベルク市民にとっては、聖槍とは年1回目にする金メッキカバーのそれであったことがうかがえる。

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関連交易品

参考文献

ニュルンベルクと聖ローレンツ教会 from 写真AC

ニュルンベルクの街並み from 写真AC

ニュルンベルク城 wissamothman110によるPixabayからの画像

フラウエン教会(聖母教会)とクリスマスマーケット
blende12によるPixabayからの画像

*1:その他には、縫針、針金、はさみ、錠前、スプーン、じょうご、コップ、コンパス、鎖、大鎌、農具類など。

*2:1358年ないし1359年12月、ドイツ騎士団領のトルン市が、ニュルンベルク商人が禁制品の高価なフランドル織物14荷車分をポーランドで売り歩いているとして、ニュルンベルク市に抗議書を送っている。

*3:1242年、ヴェネツィアに毛皮が輸入されているが、当時この品目の商業で著名であったのはレーゲンスブルク商人であった。また1462年、レーゲンスブルク市参事会は、「この地方において、ヴェネツィアへの道を最初に建てたのは、我らであった」と述べている。

*4:1312年、ヴィエンヌ公会議により、イスラム教徒への木材、鉄、銅などの軍需物資の輸出、特にアフリカからの金、銀の輸入が厳禁とされた。これにより、ヨーロッパでのハンガリー東北部産の貴金属の需要が高まったが、オーストリア公アルブレヒト2世は、ハンガリーとの商業をウィーンに独占させるため、ウィーンのシュターペル(貨物積み下ろし強制権)を強化するという動きをみせる。これに対し、1335年にボヘミア王国ハンガリー王国は、オーストリアの動きへの対抗措置を協定。後にポーランドも協定に加わった。

*5:1358年、オーストリア公ルドルフ4世は、ニュルンベルク帝国議会において同市のシュトローマー商会に商業の自由特許状を与えている。

*6:粉砕された銀含有の銅鉱石に鉛と木炭を混入して加熱し、銅と鉛化銀に分離し、後者を吹分法によって銀を分離する方法。

*7:エンドレス・トゥッハーの手記によると、4月17日に市参事会院に提示された帝国宝物は次のような物だった。釘の仕込まれた槍、十字架の欠片、我らの主の飼葉桶、聖アンナの腕、聖ペテロの鎖の輪、聖ヨハネの鎖の輪、聖パウロの(鎖の)輪、聖ヨハネの白い衣の切れ端、カール帝の剣、彼の鐙二つ、彼の宝珠、彼の笏、彼の衣、彼のマント、彼のアルバ、彼の王冠、彼の帽子、彼の帯三本、彼の足袋、彼の靴、聖マウリティウスの剣、笏、宝珠、聖ヨハネの歯(鞭の結び目付き)、大きな十字架