戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

警固屋 善兵衛 けごや ぜんのひょうえ

 安芸国安南郡警固屋(現在の呉市警固屋)を本拠とした警固屋氏の一族か。弘治二年(1556)以前に周防国熊毛郡に知行を得ていた。警固屋氏は防芸引分で大内方となり、大内氏の最終局面まで従っている。

周防国熊毛郡と警固屋氏

 永禄十三年(1570)十月、毛利家臣・粟屋彌八郎元如に対し、正覚寺守恩の給地の知行が認められた。その際の給地リストには、周防国熊毛郡瑞泉寺の買地4石について「警固屋善兵衛入道先給」とある(『萩藩閥閲録』巻77)。正覚寺守恩は、弘治二年(1556)七月、毛利氏の事能要害(柳井市、琴石山)番衆となって玖珂郡日積村などに知行を得ており(『萩藩閥閲録』巻77)、その際に警固屋善兵衛の給地も買得したのだろう。

 善兵衛は、その姓から、安芸国安南郡警固屋を本拠とした警固屋氏の出身と考えられる。警固屋氏は、呉浦を拠点とする「呉衆」(山本氏)らとともに、室町期から周防大内氏の警固衆として行動していた。

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 なお永正十二年(1515)十二月、大内家臣・陶興房が奈良橋主計允に対し、熊毛郡伊保庄北中村で警固屋源左衛門尉が知行していた20石の地を与えている(『萩藩譜録』河内山甚右衛門光通)。善兵衛入道以前、警固屋氏が熊毛郡で知行を得ていた時期があったことが知られる。

防芸引分と呉衆の動向

 天文二十三年(1554)、毛利氏が大内氏と敵対。呉衆はいったんは毛利氏に服属するも、同年七月、毛利方に差し出した人質を見捨てて大内方に復帰した(『萩藩譜録』白井友之進胤延)。呉衆の方針転換は山本賢勝の主導によるとみられるが(『萩藩閥閲録』巻168)、この時、警固屋氏も同調したらしい。

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 同年十月までに呉方面は毛利方の小早川氏に占領されたとみられ、小早川家臣の末長景道や乃美宗勝らが、金山右京進に対して加茂郡広浦の呉衆の旧領を打ち渡している。その中には「警固屋先知行分」として、田畠合わせて45貫50文がみえる(『萩藩閥閲録』巻95)。

 安芸国で大内方警固衆を率いた白井賢胤は、天文二十三年(1554)七月に厳島、天文二十四年(1555)正月に佐東浦、三月に呉浦、八月に倉橋などで合戦を重ねている(「白井文書」)。山本賢勝も、天文二十四年(1555)七月に大内義長から「乗船」の馳走を賞されているので、賢胤指揮下の警固衆として戦っていたとみられる。警固屋氏も、賢勝らとともに賢胤麾下にあったと推定される。

内藤隆世の介錯

  弘治三年(1557)四月一日長府勝山において、大内氏最後の重臣内藤隆世が自刃する。『陰徳太平記』は、このとき「警固屋と云者」が介錯して隆世の頸を打落とし、毛利方から派遣された検使・兼重左衛門尉に渡したとしている。

 警固屋氏は、毛利氏による防長侵攻の中でも大内方に留まり、そしてついには、事実上の大内氏終焉の瞬間にも関わることになったものと思われる。

参考文献

  • 下向井龍彦 「第三章 中世の呉」 (呉市史編纂委員会・編 『呉市制100周年記念版 呉の歴史』 2002)
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第二巻 1968
  • 和田 秀作 編『戦国遺文 大内氏編 第2巻』 東京堂出版 2017

音戸大橋から見た呉市警固屋地区