戦国日本の津々浦々 ライト版

港町から廻る戦国時代。そこに生きた人々、取引された商品も紹介します。

吉井 行貞 よしい ゆきさだ

 大内家臣。官途名は蔵人。周防国大島郡屋代庄の土豪か。大内氏の警固衆として活動したが、厳島合戦前後に急死したらしい。

吉井氏の来歴

 『萩藩閥閲録』の吉井家の家譜によると、吉井氏は肥後の菊池武重の末裔で、伊予に移って河野氏に仕え、在所の名から吉井氏を称したという。

 その後、毛利元就の時代に毛利氏に出仕し、周防国大島郡八代(屋代)に居住したため、この地も「吉井」と呼ばれるようになったとする*1。また同地から峠を挟んで南東に位置する沖浦・秋村(現在の周防大島町大字秋)にも拠点を設け、家来の吉井刑部を差し置いたとしている(「閥閲録巻128 吉井源左衛門」)。

 後述のように、吉井蔵人行貞は大内氏の時代から、他の屋代島衆とともに警固衆として活動している。このことから、吉井氏の周防大島への移動は、少なくとも15世紀以前であったと考えられる。

弘中武長の一所衆

 大永三年(1523)四月十一日、武田光和らに支援された友田興藤厳島神主を自称し、大内氏に叛旗を翻す。興藤は佐西郡桜尾城に入城し、己斐城、石道本城*2も攻略した。

 同年八月一日、弘中武長を指揮官とする大内方警固衆が、周防国大島郡遠崎(現在の山口県柳井市遠崎)を出津し、同月十八日に厳島を占領した。この時、吉井行貞も武長麾下の警固衆として出陣していたとみられる。

 というのも、同年十二月二十八日に厳島社家・野坂房顕が大野門山に在陣の陶興房に会うために渡海した際、弘中武長の一所衆の吉井蔵人と沓尾ノ四郎が、これに同道したことが『房顕覚書』にみえる。沓尾ノ四郎は、沓屋源四郎通種のこととみられ、八月一日に沓屋源太郎勝範と小野山十郎富縄とともに五枚帆の船一艘に相船して出陣していた(「閥閲録巻137 沓屋勝八」)。

家名の存続

 天文二十四年(1555)十月一日、厳島合戦において陶晴賢率いる大内方は毛利方に大敗を喫する。合戦から一ヶ月後の閏十月十五日、長崎房次や沓屋右衛門尉ら屋代島衆25名が、毛利氏に望地注文(給地要求のリスト)を提出しているが(「毛利家遠用物」)、そこに吉井氏の名はみえない。

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 この頃、行貞は急死しており、跡継ぎもいない状態だった。ただ、行貞も他の屋代島衆と同じく毛利方の立場だったらしく、毛利元就・隆元父子は、同年閏十月朔日付で行貞の後家に大島郡屋代庄および熊毛郡小郷で35石の知行を与えている(「閥閲録巻128 吉井源左衛門」)。

 行貞の跡には、伊予河野氏に仕えていた吉井左馬助(行貞の甥)が迎えられ、その遺領を相続。後に吉井平右衛門尉元武と名乗り、沓屋景頼の娘(母は長崎元康の娘)を妻とし、豊後大友氏との合戦や慶長の役などで功を挙げている。

参考文献

  • 廿日市町史 通史編 上』 廿日市町 1988
  • 山口県文書館 編 『萩藩閥閲録』第三巻 1970
  • 福田直記 編著 『棚守房顕覚書 付解説』 宮島町 197
  • 土居聡朋・村井佑樹・山内治朋 編 『戦国遺文 瀬戸内水軍編』 2012 東京堂出版
  • 岡部忠夫 編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房 1983

西屋代地区と東屋代地区の中間にある吉井城跡の遠景。大島郡の古城記録では、吉井隠岐守光政の城と伝わっていたという

飯の山展望台から見た周防大島町の屋代地区(旧八代村)

周防大島の飯の山展望台から見た大畠瀬戸と大畠・遠崎地区

*1:現在の周防大島町東屋代地区に吉井の地名がある。

*2:現在の広島市佐伯区五日市町石内にあった城塞。有井城に比定される。